東亜開運への移管と戦乱による終焉
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「日華連絡船」の記事における「東亜開運への移管と戦乱による終焉」の解説
1939年(昭和14年)には戦時体制の一環で設立された東亜海運へ航路ごと移管され、長崎丸・上海丸も現物出資として同社へ移籍となった。 1940年(昭和15年)10月、航路強化を目的に神戸丸が就航し、翌1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が開戦するも旅客数は長崎→上海が55,211人、上海→長崎が53,098人を記録した。 戦時下においても、日本と上海を結ぶ重要な航路として年間10万人以上の利用を数えたが、1942年(昭和17年)に長崎丸と神戸丸が、その翌年には上海丸が失われ、運航船舶すべてを失った日華連絡船は誕生から僅か20年余りで事実上の終焉を迎えた。
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