大政翼賛会へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 14:09 UTC 版)
東亜協同体論や新体制運動促進などを会の主張として掲げ、後の近衛による「東亜新秩序」・「大政翼賛会」に大きな影響を与えることとなる。同時に平沼騏一郎など国粋主義を掲げる政治家・官僚・右翼から「アカ」として批判・攻撃されるようになり、経済政策も財界から反対にあう。 また、大政翼賛会を「政事結社」とするか「公事結社」とするかなど、新体制運動などに対しても会員間で意見が対立するようになった。 こういったことから、大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。 大政翼賛会議会局をつくり、そこに解党した各党の議員らを全部押し込めるかたちになったので、議員らの不満がつのり、翼賛会の予算審議で議員らの不満が爆発した。たとえば、小泉純也は後藤隆之介が皇軍を批判し、共産軍に同調しているとして非難した。
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