大政翼賛会への合流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 16:32 UTC 版)
その後も立憲政友会、立憲民政党からは共に入閣する者はいたものの、政治力は相対的に低下していく。その一方で、両党内部にも軍部に呼応する動きが発生(政友会における中島知久平や民政党における永井柳太郎の動き)、紆余曲折を経て昭和15年(1940年)、大政翼賛会に合流することになる。一般的にはこの時代の議会は軍部や政府に従うだけの機関であったと解されているものの、実際には旧政党における多くの議員が積極的に政府・軍部が結びついて政党に替わって組織された翼賛議員同盟や翼賛政治会、大日本政治会の支配権を掌握していくことで政治的利益に与っていた。こうした動きに抵抗したのが昭和17年(1942年)に行われた翼賛選挙における「非推薦候補」であった。敗戦後、旧大日本政治会所属者(その大半が日本進歩党結党に参加した)を中心として当時の議員の多くが公職追放された背景には、当時の議会・政党が軍部の弾圧による犠牲者ではなく、軍部の積極的な協力者と看做されたからである。 この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
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