親日政権への参加
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日中戦争(抗日戦争)勃発後、馮司直は親日政権に参加し、和平促進会会長、新民会会長をつとめている。1941年(民国30年)、山西省情報処処長に任ぜられ、雑誌『情報月刊』を刊行して親日宣伝を展開した。翌1942年(民国31年)6月、華北政務委員会山西省宣伝処処長となっている。翌年1月、山西省省長に昇格する。2月、華北河渠委員会委員を、6月、山西省保安司令を、それぞれ兼任している。1944年(民国33年)6月、山西省長を辞任した。 日本敗北後、馮司直は閻錫山に降伏し、いったんは赦免された。しかし山西省内でこのことに対する反発が高まったため、結局馮は漢奸として裁かれることになる。1946年(民国35年)8月8日、馮は山西省高等法院で死刑判決を言い渡されたが、執行されること無く収監され続け、1949年(民国38年)に獄死した。享年66。
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親日政権への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:36 UTC 版)
日中戦争勃発後の1937年(民国26年)12月、繆斌は、北平(北京)に成立した親日政権の中華民国臨時政府に参加した。新民会中央指揮部部長に就任し、会長の王克敏を補佐している。この頃、石原莞爾と親交を結び、「東亜連盟運動」を推進している。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、繆は中央政治委員会聘請委員(第2期・第3期では延請委員と改称)に任命された。6月に憲政実施委員会常務委員、7月に中日文化協会名誉理事・中国教育建設教会名誉理事長となる。8月に新民会副会長(会長は王揖唐)になった。9月、華北政務委員会委員に任命され、12月には(汪派)中国国民党中央執行委員に選出されている。 1941年(民国30年)2月に東亜聯盟中国総会の常務理事となり、さらに立法院副院長と軍事委員会委員にも任命された。翌年8月に考試院副院長と要職を歴任した。1943年(民国32年)4月、第4期中央政治委員会で指定委員に選出されている(第5期も同様)。
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