医大時代(1923 - 1960年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 00:57 UTC 版)
「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「医大時代(1923 - 1960年)」の解説
1923年(大正12年)4月1日 - 長崎医科大学を設立。初代学長 - 山田基 併置施設 - 附属医院(看護婦助産婦養成所)・附属医学専門部・附属薬学専門部(医専薬学科を改称) 医科大・長崎県医師会の協力により「長崎医学会」が発足。研瑤会は同窓会として再編。 1925年(大正14年)附属医院、鉄筋コンクリート造の病棟の新築開始。 3月31日 - 附属医専を廃止。 1926年(大正15年)9月7日 - 附属図書館を設置。(長崎大学附属図書館医学部分館の前身) 1927年(昭和2年)3月 - 第1回卒業式を挙行。 1929年(昭和4年)2月 - 附属医院の看護婦助産婦養成所を産婆看護婦養成所と改称。 4月12日 - 野母臨海実験所を設置。 1933年(昭和8年)12月 - 学位請求論文の審査に関わる附属医院長・勝矢信司への贈収賄事件が発覚。勝矢ら4教授は辞任し、小室学長も更迭・高山学長が就任した。(詳細は「科学における不正行為」の当該項目を参照) 1935年(昭和10年)7月1日 - 雲仙診療施設を開院。毎年夏季2ヶ月間のみ開かれ、太平洋戦争開始前まで存続。 1939年(昭和14年)5月13日 - 戦時体制下での軍医養成のため7帝大および他の官立6医大とともに臨時附属医学専門部を設置。 1940年(昭和15年)- 大陸医学研究所(病理部のみ)を設置。 1942年(昭和17年)3月23日 - 勅令第182号により、大陸医学研究所を拡充改組し、東亜風土病研究所を設置。 1944年(昭和19年)4月1日 - 臨時附属医専を附属医学専門部と改称。 1945年(昭和20年)6月 - 勅令第372号により附属医院の産婆看護婦養成所を厚生女学部と改称。養成期間を3年に延長し産婆科を設置。 8月1日 - 白昼、米軍機により附属医院へ爆撃。 8月9日 - 原爆被災により校舎・施設壊滅。教職員・学生・看護婦など850余名が犠牲となる。 9月 - 大学再興を決議。 10月 - 講義を再開。 1946年(昭和21年)4月1日 - 勅令第206号により東亜風土病研究所を風土病研究所と改称。 1947年(昭和22年)5月14日 - 附属医専を廃止し、長崎高等学校設立。戦災による甚大な被害が「再建に支障」と判断されたもので、附属医専の廃止は全国唯一。在学生は特設高校および他の医専・附属医専部への転校をよぎなくされた。 10月 - 家畜医学研究所設置(1949年(昭和24年)長崎医大附置研究所となる)。 11月 - 復帰式を挙行。 1948年(昭和23年)4月 - 附属医院厚生女学部に甲種(修業年限3年)・乙種(同2年)を設置。 1949年(昭和24年)5月31日 - 新制長崎大学発足にともない包括され、長崎大学長崎医科大学と改称。附属医院厚生女学部は医学部附属厚生女学部に移行。 1951年(昭和26年)3月 - 附属薬専を廃止。厚生女学部乙種を廃止。 1954年(昭和29年)3月 - 旧制医大最後の卒業式を挙行。 1960年(昭和35年)3月31日 - 長崎医科大学を廃止。
※この「医大時代(1923 - 1960年)」の解説は、「長崎医科大学 (旧制)」の解説の一部です。
「医大時代(1923 - 1960年)」を含む「長崎医科大学 (旧制)」の記事については、「長崎医科大学 (旧制)」の概要を参照ください。
- 医大時代のページへのリンク