医史学研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 05:26 UTC 版)
北里研究所東洋医学総合研究所では、週3回の午前の外来であったが、毎回患者数は50名を下らず、時には60名を数えた。大塚がカルテ記載でこだわったことに、患者の声をそのままカルテに残す、ということがある。患者の訴えを医学用語に置き換えて記載したのでは、本当の声が伝わらないと、できるだけ忠実に患者の声をカルテに残した。カルテ記載はモンブランの万年筆と決まっていて、何本も持っていた。 診療のほかに東洋医学総合研究所で力を入れたのは医史学研究である。矢数道明が所長の時代に医史学研究室ができ、それを発展させた。小曽戸洋、真柳誠をはじめとして、日本の医史学を牽引する学者を育てた。江戸期の学者にできなかったこととして、東西の比較医学史を自分に課せられた命題と考えていた。「ワルテンシュタイン城にてーヨーロッパでアジア医学を考える」というエッセイの結びで「アジアの医学を考えることは同時に世界の医学を考えることである。東洋文化と西洋文化の接触点として日本はこの主の研究にはまことに地の利を得ているといえよう。アジア医学の比較研究、東西医学の比較研究という分野が今後日本で発展することを願ってやまない。」と結んでいる。初期に大槻玄沢の「採長補短説」について研究したのも、医療における洋の東西共存の形を模索していたからであろう。大塚は安易に融合することには警鐘を鳴らしている。お互いの良いところを残しながら影響し合って発展すべきと述べている。
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