コメディアンとして
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ドリフはTBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で大人気となった。1979年にドリフのマネージャーだった井澤健がナベプロから独立し、ナベプロから暖簾分け(非連結関連企業)の形で「イザワオフィス」を設立。ドリフはイザワオフィス所属となった、また私生活では前年の7月15日に離婚していた。 ドリフ時代のギャラ配分は、イザワオフィス移籍直後から6(いかりや):1:1:1:1だったため、メンバーとの衝突も多かったとされ、ネタにもなった。ただし、諸経費等はいかりやのギャラからほぼ全て出していた(メンバーは全員給与の一部より営業などの諸経費を負担していた)ため、実際の取り分は他のメンバーよりもわずかに多かったに過ぎなかったとし、それをネタにしたコントもある。 『全員集合』が開始された頃に、山田康雄に演技指導を受けていたというエピソードがあり、それが縁で『ルパン三世』の収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演した。また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。 『全員集合』の打ち合わせは2日前の木曜日に行われていたが(木曜会議)、いかりやを中心にネタが決められ、いかりやがネタを思いつくまで皆が黙っていることが多かった。他の作家がアイデアを出しても、「つまらねぇ」と却下することも多かった。この事について「彼らのネタは机上でしか考えてない様だったり、面白くてもドリフでは出来ない内容ばかりだった」と著書で述べており、加藤も後に「作家が考えたネタより、自分達で考えた方が観客には受けた」とコメントしている。若手放送作家だった高田文夫は『全員集合』のスタッフとして参加していたが、打ち合わせ時の、あまりにも静かで重い空気に耐えられず、逃げ出した経緯をスポーツ紙の連載に記している。 ドリフのボーヤだった志村けんは「自分の考えたネタをいかりやさんに見せる時が一番緊張した」と、いかりやの死後のインタビューで述べている。いかりやは著書で志村のネタ作りの才能と積極的に提案する姿勢を高く評価しており、ドリフの正式メンバーに昇格させた理由の一つであったと語っている。 『全員集合』での「オイッスー!」「次、行ってみよう」『ドリフ大爆笑』"もしものコーナー"の「だめだこりゃ」などのフレーズがモノマネのネタにされる。特徴であった唇の形もよくネタにされていた。コントでは、抑圧的な憎まれボスというキャラ設定が主で、典型的なツッコミタイプである。(『ドリフ大爆笑』の人気コーナー「ばか兄弟」(仲本とのコンビによるコント)シリーズ等でボケを演じることもある)、それに対して、加藤や志村らが反撃に出るといったスタイルで、それをギャグとして取り入れていた。60歳を超えてからも体を張って大量の水を被ったり、金たらいや一斗缶を頭に受ける等の芸風を通した。 ドリフのボーヤには、志村けん、井山淳、すわ親治らがいた。清水キョウイチ郎はいかりやの元弟子を自称していたが、いかりやの関係者から「そんなの知らない」という証言があり、詳細は不明である。尚、清水自身は「『渋谷とんぼ』という芸名を付けてもらう寸前に離れてしまったので、向こうは覚えていないかも知れない。でも当時数十人居たボーヤの中で、そこまで行くのはほとんどいなかった」とコメントしている。
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コメディアンとして
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「ウディ・アレン」の記事における「コメディアンとして」の解説
1953年、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学とスペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートはコメディ風といった調子で、結局中退してしまった。ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、さぼり癖はおさまらず、またもや中退。母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズという最強のコネを使って後押しした。バロウズはアレンの才能を高く買い、シド・シーザーやピーター・リンド・ヘイズなどのテレビ司会者を紹介するとともに、アレンにギャグ・ライターだけではなく、シリアスな芝居とコメディを両立させることの必要性を説いた。 1955年、同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBCの放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモンやメル・ブルックス、ラリー・ゲルバードらとともに働いた。1958年、アレンとゲルバードは、シド・シーザーの特別番組でシルヴァニア賞を受賞し、同作品はエミー賞にもノミネートされた。『パット・ブーン・ショー』で再びエミー賞にノミネートされ、放送作家としての地位を確固たるものにした。しかし、アレンは放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、仕事の依頼が続々舞い込み続けた事からうつ病を患う様になり、1959年から精神科への通院を始めた。 『パット・ブーン・ショー』が打ち切られた1960年から、アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始めた。『ブルー・エンジェル』での初舞台は散々な評価に終わったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げて、人気を集めていった。1962年8月には、『ニューズウィーク』誌がアレンを「シェリー・バーマン、モート・サール、レニー・ブルースに次いで現れたコメディアンの中で最も革新的」と評価し、1963年2月には『ニューヨーク・タイムズ』誌が同様の舞台評を書くまでになった。評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。
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コメディアンとして
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俳優だけでは一生食べていけないと感じ始めていた折にプロダクション人力舎の玉川善治から声を掛けられて、1983年、テレビ朝日『ザ・テレビ演芸』のオーディションコーナー「飛び出せ!笑いのニュースター」に出演してグランドチャンピオンになり、デビュー。普段は辛口な評論をする司会の横山やすしから絶賛され、その後バラエティ番組に多数出演する。1985年にはシティーボーイズ、いとうせいこう、宮沢章夫らと演劇/コントユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」(RGS)を結成。 『東京イエローページ』(1989年-1990年)、『竹中直人の恋のバカンス』(1994年-1995年)、『デカメロン』(1997年)など、竹中を中心としたコント番組も放映されている。
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