ロシア沿海州クラスキノ土城跡「オンドル」論争
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「渤海 (国)」の記事における「ロシア沿海州クラスキノ土城跡「オンドル」論争」の解説
韓国メディアの『東亜日報』や『中央日報』や『朝鮮日報』は渤海のクラスキノ土城では中国にはみられないオンドルが使用されており、これこそが渤海が高句麗の継承国だった証拠としている。韓圭哲(朝鮮語: 한규철、慶星大学)は、「渤海と高句麗の文化を継承した事実はオンドル遺跡を通じて証明されている。…渤海の高句麗継承を証明する重要な遺跡がオンドルである。…韓国学界は、オンドルの起源を高句麗とみている。実際、中国と北朝鮮で発見された高句麗遺跡ではオンドルが見つかっており、渤海遺跡も同様である。…渤海の首都だった上京龍泉府の宮殿西側「寝殿跡」および咸鏡南道新浦市梧梅里で発見された渤海遺跡では焼いた痕跡がみつかった。オンドル遺跡は、靺鞨が暮らしていた高句麗辺境と渤海地域でも発見されているが、唐の遺跡から発見されたという報告はない。オンドル遺跡は、渤海文化の独自性と高句麗文化の継承性を証明している」と述べている。 ただし、このような主張は韓国の研究者からも批判されており、李孝珩(朝鮮語: 이효형、釜山大学)は、渤海の遺物からは、高句麗の要素(オンドル、瓦當、石室封土墳、高句麗築城)、靺鞨的要素(土壙墓、靺鞨系土器)、唐の要素(各種政治制度、唐三彩、上京龍泉府の構造、霊光塔(中国語版))、中央アジアの要素(中央アジアの銀貨と鏡と装身具、景教の十字架)、渤海固有の要素(柱下の装飾タイル、鬼瓦の様式、二十四塊石(中国語版))などの多文化要素が発見されており、渤海は広大な領土を持ち、住民構成も多様であるため、渤海文化は、地域性・多様性を持っており、特定の一つの要素だけを強調して、高句麗か、靺鞨かという二者択一的な理解は正しくなく、数回行われたロシアによる考古学調査におけるオンドル遺跡の発掘だけを切り取って、渤海は高句麗文化を継承した朝鮮の国家であると過度に強調することは望ましくなく、遺跡にはオンドルのほか、土器・鉄・銅の遺物、装身具など様々な遺物が出土しており、遺跡と出土物の総合的な理解に基づいて、渤海史を復元しなければならないが、オンドル遺跡のみを切り取って、渤海の帰属を主張するのは、中国の研究者が唐の文化的要素(上京龍泉府の構造、唐の官制を模した三官六省の組織、律令体制)を強調して、「渤海は唐の地方政権である」と主張しているのと異ならず、渤海は、複雑な住民構成と広大な領土を保有していたことから多様な文化を生み、高句麗だけではなく、唐だけでもなく、独自の渤海文化を創造しており、多様な文化的な遺物が発掘されているのに、自国に有利な高句麗文化の要素だけを利用するのは、適切な学問の姿勢ではないと述べている。 金東宇(朝鮮語: 김동우、国立春川博物館(英語版))は、渤海は朝鮮半島北部と中国東北部、沿海州に存在した広大な国であり、その住民も複雑であり、高句麗遺民とともに靺鞨族が住んでおり、渤海は唐、日本、新羅、契丹などの周辺国と交流をしていたため、渤海文化は多文化要素で構成されているが、渤海帰属問題と関連して、渤海文化を一元的に把握しようとする傾向があり、高句麗継承国としての渤海文化の高句麗的要素だけを強調し、靺鞨文化を含むいくつかの文化的要素を無視する偏向的視点を持っている研究として、1971年に北朝鮮で刊行された朱栄憲(朝鮮語: 주영헌)の『渤海文化(朝鮮語: 발해문화)』(朝鮮語: 사회과학원、朱栄憲・在日本朝鮮人科学技術協会 『渤海文化』雄山閣出版〈考古学選書〉、1979年3月1日。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output 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)を挙げている。『渤海文化』は、渤海の遺跡・遺物と高句麗の継承関係を提示し、序文で「第2編では、上で指摘した遺跡遺物を通じて具体的に墓の仕組みと編成、各種建築物の形態とそこに使用した建築部材の質、形態および装飾模様、様々な種類の器と武器、その他の遺物に見える高句麗との継承関係を考古学的に証明しようとする」と述べており、オンドルを主に高句麗文化の継承の結果とし、瓦、陶磁器、鏃のような代表的ないくつかの遺物だけでも、その形態と製作技法は渤海と高句麗は互いに同じであり、他国のものとは著しく異なっていると主張している。これに対して金東宇(朝鮮語: 김동우、国立春川博物館(英語版))は、文化は水の流れと同じで停滞しない習性を持っており、地域文化はその文化を形成した共同体固有の属性があるが、他地域で花を咲かせた文化が輸入されて影響を受けるものであり、渤海文化もこれと異ならず、これまでの研究成果から、渤海文化は多様な要素を持っていたことが明らかになっており、渤海が高句麗文化を継承していることは間違いないが、「渤海は高句麗文化だけを継承している」という主張は誤りであり、墓制では、天井を閉め切っている石室は高句麗の様式であるが、塼室墓は唐の様式の墓制であり、土壙墓は靺鞨の風習であり、住居では、オンドル・蓮花紋瓦當・四耳付壺は高句麗文化の要素であるが、土壙墓・各種陶器・土器は靺鞨の様式であり、渤海は唐との交流からた唐の先進文物を受け入れており、上京龍泉府の構造、唐の官制を模した三官六省の組織、律令体制は唐の影響を受けており、貞孝公主墓の碑文は唐で盛行した駢文であり、日本の文人と芸を競った漢詩と渤海三彩などは唐に留学生を送り、活発な交流を行った成果であり、さらに、渤海にはウイグル人、室韋人、ソグド人などが暮らしており、ユーラシアとつながる交通路の存在が明らかになっており、景教とシャーマニズムの痕跡も見えるため、高句麗文化の要素だけを抽出するなら、渤海文化の全貌を見落とすミスを犯す危険性があることを認識しなければならないと指摘している。 李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、渤海を朝鮮の歴史に含めるのは誇張された歴史だと主張しており、「李氏朝鮮の実学者である安鼎福(朝鮮語版)も『東史鋼目』で渤海を靺鞨の歴史と記述している」として、渤海でオンドルの遺跡が発掘された或いは渤海で高句麗の瓦が数枚発掘されたからといって朝鮮の歴史に含める行為は、植民地時代に日本の歴史学者や考古学者が朝鮮半島で考古学の発掘調査を行い、日本の遺物が発掘されたことから、古代朝鮮半島は日本の領土だったという学説(任那日本府)を構築して、民族主義に立脚した古代史の過大包摂を行った行為を韓国が踏襲していると批判している。 早乙女雅博は「高句麗は、その最大時の領域をみると南は韓国・ソウル市、北は中国吉林省吉林市、西は中国・遼河地域、東は北朝鮮・咸鏡北道、咸鏡南道におよんだ。一方、渤海は、大同江以北の遼東を除く旧高句麗領を含めて、北は松花江、東は沿海州におよぶ。そして、旧高句麗領より北に置かれた王都の上京龍泉府は、地理的にみて渤海のほぼ中心的な位置にある。したがって、旧高句麗領内の渤海の遺跡や遺物には、高句麗文化の影響が認められても不思議ではない」「旧高句麗領の周辺地域は、高句麗瓦の伝統を引き継ぐことが当然考えられ、王都の東京城とは異なる文様の軒丸瓦が出土している。旧高句麗領の渤海の土器である把手付鉢も、ピョンヤンの高句麗時代の把手付鉢の器形を引き継いでいる」と述べており、高句麗の寺院の塔は八角形の基壇をもつのが特徴であるが、吉林省和竜市高産寺址でみつかった渤海の寺院の遺構は、八角形に配置された礎石が二重にまわっており、寺院のなかでの八角形建物という視点からみると高句麗との関係がうかがえ、吉林省汪清県河北故城から出土した軒丸瓦の文様は平壌の土城里の軒丸瓦と類似していること、高句麗後期の軒丸瓦は、赤褐色であり、接合部は櫛歯状工具で細かい刻み目を入れるものが多いが、これらの技法は渤海にも引き継がれたことを指摘している。
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