渤海 (国)とは?

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渤海 (国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/24 17:07 UTC 版)

渤海(日本語: ぼっかい、中国語: 渤海満州語: ᡦᡠᡥᠠ‍ᡳロシア語: Бохай朝鮮語: 발해、パルヘ/パレ、698年[7] - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。


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  4. ^ 月刊しにか 1998, p. 42-43 酒寄雅志は「八七三年(貞観一五)五月に、肥後国天草郡に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、大宰府の遣わした大唐通事の張建忠の取り調べを受け、渤海の入唐使であることが判明した。このことは崔宗佐らが、唐語=漢語を話せたことを示している。もっとも崔宗佐らは入唐使であるから、唐語を話せたのは当然ともいえるが、渤海人が唐語を話したことの微証にはなるであろう。また一九四九年に吉林省敦化県の六頂山から発見された渤海第三代王大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や、一九八〇年、延辺朝鮮族自治州和竜県の竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主墓誌などをみると優れた駢儷体の漢文で書かれていることや、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒などが漢文で書かれ、また王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることを想起すると、渤海人が漢字を熟知していたことは確かである。もとより漢字を使用していたことが、ただちに唐語を話し言葉として使っていたとはいえないが、渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族や民族集団を統一していく手段として、漢語の導入をはかったのであろう。日本へ派遣された渤海使たちも、唐語で日本人と意思の疎通をはかっていた。だからこそ春日宅成や伊勢興房、また、大蔵三常のように、豊かな在唐経験に裏打ちされた唐語に秀でた人物が渤海通事に任じられたのである」と述べている。
  5. ^ 浜田 2000, p. 127-128 浜田耕策は「渤海の遣日本使の一行は、日本側との意思疎通のために、文字言語では中国文(漢文)の外交文書等を交換していた。しかし、音声言語はどうであったか、交渉記録にはこれに関する言及はない。双方の音声言語になんら支障がなかったかのようである。そこに通事が仲介して中国語で対話したからであろう」と述べている。
  6. ^ 古畑 2017, p. 89-90 古畑徹は「渤海が国家の意思を表現し、記録を遺すのに使用した文字は、漢字である。独自の文字の存在は確認できないし、同時期にユーラシアで使用されていたほかの文字(突厥文字、ウイグル文字、ソクド文字など)が国内で使用された形跡もない。記録を残すのに漢字が使用されたことを証明するのが、墓誌である。渤海の墓誌は、現在、四つ発見され、いずれも皇后・公主のもので、漢文で書かれている。墓誌は、墓の外に立てる墓碑と違い、墓のなかに納めてしまう。そのため、その文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけで、それが読者として想定されている。ということは、皇后・公主の埋葬に集まる支配層の人々が共通に読めるのが、漢字・漢文だったということである。文字文化という点でみれば、渤海が漢字文化圏に属すことは明白である。それだけでなく、渤海の支配層は漢語で会話ができたとみられる。それを窺わせるのが、日本と渤海との外交交渉の共通言語が漢語だった点である。日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され、通訳をした。この渤海通事の使用言語が漢語であり、渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した。そもそも渤海を構成する高句麗人や靺鞨諸族は、それぞれ独自の言語を有しており、渤海は多重言語世界であったとみられる。このような場合、優位性を持つ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を相互の意思疎通のための共通言語にすることもある。渤海の場合、建国集団は、唐領域内に居た高句麗人・靺鞨人の混成集団であったから、その指導層は漢語が話せたはずで、これを異なる種族間の意思疎通に使っていたと思われる。そのあり方が、その後の多様な種族の吸収にあたって有効に機能し、そのまま継続したのであろう。一方、渤海に独自言語が存在したことも、『日本紀略』弘仁元年(八一〇)五月丙寅条に、越中国の史生と習語生を渤海人高多仏(こうたぶつ)に師事させて『渤海語』を習得させたという記事があるから、間違いない。ちなみにこの高多仏は、渤海使の一員として来日したが、脱出して日本に残り、越中国に安置された者である。ともかくも、渤海には、漢語と『渤海語』という二種の共通言語があったと想定され、なかでも漢語は支配層による公用語的位置にあったとみられる。漢語には当時、異なる言語を話す渤海領域内の人々を納得させるだけの権威があったのであろう」と述べている。
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  138. ^ 石井正敏は「第一次渤海使の齎らした武王の国書は、往時の大国高句麗を再興したことを誇らかに宣言し、かつ古典に則った盟友・友好関係を以て通交したい旨を表明したものと理解され、従来のように、朝貢の意思・服従的態度を示すとすることはできない。しかし、渤海をあくまでかつての附庸国高句麗の再興と理解する日本は、これを朝貢国として待遇しようとし、以後国書の辞句・外交形式をめぐって紛糾したが、七五九年ころから渤海が日本の主張する君臣関係を認め、朝貢形式を取ることにより解決に向かった。このころになると、文王のもと渤海と唐との関係は最円滑期を迎え、渤海の対日交渉における政治的目的も減少し、貿易を中心とする経済的目的へと変化していく。つまり、渤海はたとえ朝貢とされようとも貿易を円滑に進めることが得策と判断するに至ったものであろう。渤海王が一時『高麗国王』と自称するのも(七五九年初見)、こうした経済的目的のために日本の歓心をかう政策の一環にすぎない」と述べている。石井正敏『新羅・渤海との交渉はどのように進められたか』日本書籍〈海外交渉史の視点1原始・古代・中世〉、1975年、150-151頁。
  139. ^ 石井 2001, p. 421、石井正敏は「渤海王が日本に対して『高麗国王』と自称してくるのを、単に渤海が強く高句麗継承国であることを認識していた証左とすることはできず、その自称の経緯を考慮すると、あくまで日本側の意識(渤海=高句麗=朝貢国とする)を利用した、外交を円滑にし、貿易を振興するための、一種の外交辞令的性質をもつにすぎないと結論される」と述べている。
  140. ^ 石井 2001, p. 204、石井正敏は「渤海王が使者をして『高麗国王』と名乗らせていることも、外交辞令的要素があることを考慮しておかなければならない」と述べている。
  141. ^ 石井正敏『古代東アジアの外交と文書』東京大学出版会〈アジアのなかの日本史Ⅱ〉、1992年7月。327頁-328頁、石井正敏は「七五二年(天平勝宝四)来日の第三次渤海使の帰国に託された慰労詔書によれば、第二次渤海使のもたらした渤海王大欽茂の文書に不満をもった日本は、その返礼の使者に勅書(慰労詔書であろう)をもたせたが、その主旨は渤海王啓に『臣名』つまり『臣欽茂』と明記させることにあった。しかし欽茂が第三次渤海使に託した啓でも日本の要求に応えなかったため、あらためて指摘したことが知られる。日本(天皇)と渤海(王)との関係が君臣関係であることを文書で確認させるためであることはいうまでもない。この日本側の要求にたいして、次回七五八年(天平宝字二)来日の渤海使は口頭で、『高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。……令齎表文并常貢物入朝』と述べるが、肝心の『表文』が掲載されていないため、具体的にはどのような文書か明らかにすることができない。あるいは『臣名』を明記した啓を『表文』と称しているのかとも思われるが、定かではない。しかし欽茂がみずから高麗国王と名乗り、『表文』を提出はしたが、それが本意でなかったことは確かである」332頁「日本は唐の皇帝と同じ書式を用いて、中華意識を前面に押し出し、華夷秩序を新羅・渤海に強要した。その結果はまことに対照的であり、新羅は文書外交に応じず、ついに対日外交を放棄し、一方の渤海は日本の主張を全面的に受け入れて外交を継続した。日本との貿易を最重要課題として、日本との上下関係を容認することも厭わなかった渤海の現実的な外交方針がそこに表れている」と述べている。
  142. ^ 古畑徹は「八世紀半ばの一時期に日本に対して『高麗国王』を名乗るが、これは単純な高句麗継承意識の表明ではなく、かつての『朝貢国』高句麗の復活として渤海を位置づけようとする日本の対外政策への迎合であることが、石井正敏氏によって指摘されている」「韓国ではこの石井見解に対し、渤海の継承意識を日本が政治的に利用したのであって、対日国書などの外交文書に見える高句麗継承意識はそのまま渤海国の意識と解するのが一般的に思われる。例えば、宋基豪(浅井良純訳)『日本・渤海の国書に反映された内紛期の渤海社会』(『朝鮮学報』一五九、一九九六)は、七九八年来日の大昌泰一行がもたらした国書の『慕化之勤、可尋 於高氏』(『類聚国史』巻一九三・延暦一七年一二月壬寅条)を、『日本に使臣を派遣する誠意の根源を高句麗にもとめた』と解し、渤海の継承意識が毅然として現れたものと見る。しかし、この文言はその前に出された桓武天皇の国書中の文言と対応するものであり、宋氏の解釈は朝貢の年限をめぐる一連の交渉中の文言であることを考慮しておらず、方法的に問題がある」と述べている。古畑徹後期新羅・渤海の統合意識と境域観朝鮮史研究会三六巻、1988年。41頁、52頁
  143. ^ 古畑 2017, p. 158、古畑徹は「渤海使の史料を見ると、八世紀後半に、日本が渤海を『高麗』と呼び、渤海王も『高麗国王』を自称する時期がある。日本は、第一次渤海使がもたらした国書で渤海が高句麗の後継を自認していることを知るが、そこでイメージした高句麗像は、かつて臣属朝貢していた高句麗であった。そのため、日本は渤海を朝貢国とみなして『高麗』と称することを要求し、渤海も円滑な外交関係を最優先し、第四次渤海使から『高麗国王』を自称する。『高麗国王』自称は高句麗継承の強い自己認識の表れとする異論もあるが、石井正敏の丁寧な考証によるこの理解は揺るがない」と述べている。
  144. ^ 赤羽目 2011、7頁、赤羽目匡由は「日本史料にみえる日本に対する渤海王の『高麗国王』自称に関する解釈に顕著にみられるように、日本史料のなかの渤海関係記事を、当時の日本における政治状況の文脈で理解する。渤海王の『高麗国王』自称の問題も、日本との外交関係に配慮した渤海王の迎合とされる」209頁「渤海王の『高麗国王』自称について、現在問題となるのは、それが自発的なものであるか、そうではなく日本に迎合したものに過ぎないかという点になろう。ただこうした問題点は現在、日本ではほとんど議論の対象とされない。それは先述の石井説がきわめて説得力に富むために定説となっているからである」212頁「日本朝廷がこのとき、わざわざ単独で渤海へ専使を遣わし、強く君臣・上下関係を明示する上表文の提出を迫ったことから、渤海ではそれを受け、その後はじめてやってきた七五九年の渤海使楊承慶が朝貢的態度を明確にしたのであって、『高麗国王』自称も日本のこうした要求に迎合したものとされるのである。以上みてきたように、渤海王の『高麗国王』自称に至るまでの日渤交渉過程の分析は合理的であり、日本と渤海との交渉過程を中心に追うかぎりは、『高麗国王』自称を迎合とする解釈には疑問の余地がないようにみえる」と述べている。
  145. ^ 酒寄雅志は「渤海王は八世紀の中頃から日本にたいして『高麗国王』と自称するなど、高句麗の継承意識を表明している(石井正敏『日渤交渉における渤海高句麗継承意識について』『中央大学大学院研究年報』四、一九七五年)が、これはあくまで日本の外交政策に迎合するためで、むしろ高句麗文化の影響を払拭して国内支配を貫徹するための唐制の導入を積極的に進めたのではあるまいか」と述べている。酒寄雅志『華夷思想の諸相』東京大学出版会〈アジアのなかの日本史ⅴ〉、1993年1月、55頁。
  146. ^ 酒寄 2001, p. 20、酒寄雅志は「石井正敏氏は日本にもたらされた第一回の国書を分析して、渤海が日本に迎合するための高句麗継承意識があったことを論じる」468-469頁「渤海王は八世紀の中ごろから日本にたいして『高麗国王』と自称するなど、高句麗の継承意識を表明している(石井正敏『日渤交渉における渤海高句麗継承意識について』『大学院研究年報<中央大学>』四、一九七五年三月)が、これは日本との外交政策を有利に展開するためで、国内的にはむしろ高句麗文化の影響を払拭して唐制の導入を積極的に進めたのではあるまいか」と述べている。
  147. ^ 浜田久美子は「(石井正敏「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」は)渤海を高句麗の継承国とする認識が日渤双方にあるものの、大国高句麗の継承国を自負する渤海と、かつての附庸国高句麗の継承国として渤海を捉える日本とでは内容が異なると指摘する」「(石井正敏「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」と「第一回渤海国書について」は)渤海を朝貢国とみる日本と、日本を対等視する渤海という両国の認識の違いが石井の日渤関係史研究の基本であり、その後長く通説とされている」と述べている。荒野泰典川越泰博鈴木靖民村井章介編著『前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学』勉誠出版、2017年9月。ISBN 978-4585226802152頁、154頁
  148. ^ 姜 2014, p. 24、姜成山は「渤海が国書の中で高句麗と扶余を持ち出したのは、石井正敏が指摘するとおり大国であった扶余と高句麗の継承国であることをアピールすることで外交を有利に展開しようとしたものであろう」p. 43-p. 44「石井説はみずから提唱している『渤海の高句麗継承意識』説と関係がある。つまり、渤海が日本に来た時、自らをかつての強国『高句麗』の後継国であると標榜したという説である。渤海王やその使節は自国の優位性を保つため、『高句麗』を標榜したことに異論はない。しかし、『日本後紀』成立の時点まで、付表4(pp.188~189)でわかるように、20数回にも及ぶ渤海との交渉のうち、日本も渤海と高句麗の相違は認識していたはずである。むしろそれを認識していたからこそ、『高句麗人』もしくは『高麗人』と書かずに、『土人』と書いたのだと思われる」と述べている。
  149. ^ 浜田 200053頁、浜田耕策は「小野田守らと同船した大使の楊承慶ら一行二三人は、七五八年十二月、越前から入京した。翌年正月には楊承慶らは方物を貢ぎ、ついで口奏して『高麗国王の大欽茂言(もう)す』と切り出し、孝謙天皇の弔意のために表文と貢物をもたらしたことを述べた。さて、ここでは楊承慶が口奏ながらも大欽茂を『高麗国王』と冠称したことが注目される。渤海郡王とせず高麗国王としたのは、先の慕施蒙が持ち帰った孝謙天皇の璽書に『高麗旧記』を引き出して、君臣の義による渤海の対日外交を強いていたが、口奏とはいえ楊承慶が日本の姿勢に従ったのである。ただ、渤海使が自国の王を高麗国王と冠称したのは日本に対面した次元でのそれであって、渤海本国において称したことではない」59頁「楊承慶が外交交渉の緊張関係のなかで渤海を高句麗の復興とみなす日本側に仮に迎合して『高麗国王大欽茂言す』と口奏したことがあった」93頁「光仁天皇が壱万福に託して大欽茂に宛てる璽書には『天皇、敬いて高麗国王に問う』とあり、また七五三年に慕施蒙が託された孝謙天皇の璽書と同じく高句麗王との『親しきこと兄弟の如く、義は君臣の若(ごと)し』という朝貢形式を復活することを強い、渤海国王を『舅』、天皇を『甥』と設定した今回の上表文の両国関係の規定は礼を失ったものと咎めていた」と述べている。
  150. ^ 浜田耕策日本における渤海認識の変遷東北アジア歴史財団、2010年12月、120頁。浜田耕策は「この初めてとなる渤海使者の属性とその国書の情報は、その後の日本の渤海認識を決定したと言える。それは、石井正敏氏が説くように、渤海使者の来日とその外交形式と、そして大武芸の国書に言う渤海の建国事情とは、日本側に滅亡した高句麗と日本との朝貢関係を復活させるものと認識させたのである。日本からすれば、律令国家の体制を歩み出した時代に、日本に朝貢する国家と認識されていた亡国の高句麗に変わって渤海が新たに朝貢国として登場したと認識されたのである。そのことは初回の渤海国の使節を渤海に送った引田朝臣虫麻呂らが730年8月に渤海から帰国するや、大武芸から受領した信物を6ヶ所の山陵や諸国の神社に奉納したことにも現れている」と述べている。
  151. ^ 河添房江は「渤海国は、日本に対しても高句麗の後裔として『高麗』を名乗り、国交を求めてきました。隣国の新羅とは当然のように敵対関係にあったので、唐や日本との友好な関係を築くことで、国家を維持しようとしていたわけです。渤海国が日本に使節を派遣したのは、神亀四年(七二七)九月にはじまります。出羽に使節が到着し、翌年正月には、渤海王の大武芸の啓書(国書)を聖武天皇に差し出しました。その際、国書には、高句麗の再興をめざした王権であることと、日本と隣好の交流を求めることが書かれてあり、あわせて貂皮三百張も献上されました。つづいて、大武芸の子、大欽茂の使節が天平十一年(七三九)七月に出羽に到着します。『続日本紀』には、同十月、平城京に入京し、大使が死亡していたため、副使が国書と、信物とよばれる献上品として、「大虫皮(虎皮)・羆皮各七張・豹皮六張・人参三十斤、蜜三斛」を差し出したと記されています。さらに大欽茂は、天平勝宝四年(七五二)に第二回目の使節を送り、九月に佐渡ヶ島に着いた使節は、翌年五月に入京して、啓書と信物を差し出します。この時、孝謙天皇から返された勅書には、『高麗旧記』を引用して、かつて日本と高句麗とは君臣の関係にあり、高句麗の後裔を名乗る渤海の啓書に、日本の臣下であることを示す表現がないことを咎めています。その経緯は、唐との関係から日本と対等の外交関係を求める渤海と、臣下として朝貢の関係を求める日本の朝廷との間で葛藤が生じはじめたことをものがたっています。その後、渤海国からの次の使節は、天平宝字二年(七五八)十二月に越前から入京し、大使の楊承慶は口奏で大欽茂を『高麗国王』とし、表面上は日本の姿勢にしたがっています。そもそも唐に遣唐使を派遣し、朝貢をしている立場の日本が、三韓時代の神話に固執して、渤海や新羅に日本への朝貢を求めたことは、国際外交の上では滑稽であったというべきでしょう。そのため新羅との国交が断絶したのに対して、渤海国は結局のところ実利を選んだというべきかもしれません。渤海国の使節がなぜ日本の朝廷で『高麗人』として扱われたのか、その起源をたどれば、以上のような次第であったわけです」と述べている。河添房江光源氏が愛した王朝ブランド品KADOKAWA〈角川選書〉、1993年1月、30-31頁。
  152. ^ 石上英一は「渤海は七二七年(神亀四)はじめて日本に遣使してきたが、その国書は上長に奉ずる書式をとりながらも内容は朝貢の意向を表明したものでなく対等の隣交を求めてきたものであった(石井正敏「第一回渤海国書について」)。ところが、日本は高句麗を継承すると称する点をとらえて、渤海も朝貢国と位置づけていた(石井正敏「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」)。かくして、八世紀の日本の対外関係は『「隣国」=唐国、「諸藩」=朝鮮諸国、「夷狄」=隼人・蝦夷等という三類型』(石母田正『日本古代国家論』第一部)から成りたっていたのである。しかし、唐を隣国とし、新羅・渤海を諸藩の朝貢国と位置づけることが、現実の国家関係においてはいかに実体のないものであったかも指摘しなくてはならない」と述べている。石上英一『古代国家と対外関係』東京大学出版会〈講座日本歴史2 古代2〉、1984年11月、270-272頁。
  153. ^ 廣瀬憲雄は「その過程において重要な役割を果たしたのが、渤海の『始祖伝承』としての渤海高句麗継承国意識である。前述の通り、仕奉観念では、現在の奉仕は始祖がかつての大王に行った奉仕の継承として説明されているため、『服属』の正当化のためには、貢納・奉仕関係の起点となる始祖伝承が不可欠である。新羅に関しては神功皇后伝承がその役割を果たしていたことは疑いないが、渤海に関して同様の役割を果たしたのは、日本が渤海を『かつての付庸国高句麗の後継者』と位置付ける、渤海高句麗継承国意識であったと思われる。日本と新しく国交を開いた渤海との間には、当然ながら始祖伝承は存在せず、そのままでは仕奉観念は有効に機能しない。そこで日本は国内において、渤海高句麗継承国意識を始祖伝承として創出・介在させることで、渤海を『高句麗の後継者として、かつての高句麗同様に』天皇に対して仕奉するべき存在として位置付けたといえる」と述べている。廣瀬憲雄『東アジアの国際秩序と古代日本』吉川弘文館、2011年10月、174頁。ISBN 978-4642024853
  154. ^ 42頁、平野卓治は「神亀四年(七二七)に渤海使が初めて来朝した。渤海は黒水靺鞨部との間に紛糾が生じ、唐・新羅に対抗するに日本に軍事援助を求めたと考えられるが、渤海側は朝貢形式ではなく日本と対等に近い形での通交を求めていた。しかし、日本側は渤海を高句麗の継承国として認識し、朝貢国として位置付けることによって、自らの『小帝国』構造を充足させたのである」43頁「高句麗に対する先例を依拠すべき『旧例』としたのである」と述べている。平野卓治『山陽道と蕃客』国学院大学〈国史学135〉、1988年5月。
  155. ^ 佐藤 2003, p. 131-133、森公章は「渤海側には日本とは異なった意味での高句麗継承国意識が存しており、外交形式は臣下の礼をとる上下関係、上表文を奉呈する朝貢関係ではなく、対等の国としての通交を求めるものであった」佐藤 2003, p. 157、森公章は「石井正敏『日本・渤海交渉と渤海高句麗継承国意識』(『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、二〇〇一年、初出は一九七五年)では、日本が渤海をかつての日本の付庸国である高句麗の継承国であると認識して、日本に朝貢してきたとみなしていることを指摘する」と述べている。
  156. ^ 田島公は「『続日本紀』天平宝字三年(七五九)正月庚午条によれば『方物を貢ず。奏して曰く。高麗国王大欽茂、言す。……』とあり、渤海使は王言の口奏しか行っていないように見えるが、王言のなかに『表文と常貢を齎して入朝せしむ』とあり、使者に表文(国書)を持たせたことが記されており、また天平勝宝五年(七五三)五月乙丑条には『拝朝し幷びに信物を貢ず、奏して稱く。渤海王、日本照臨せる聖天皇の朝に言す。……』とあるのみだが、六月丁丑条の日本からの国書には『来啓を省みるに』とあり、石井正敏氏も指摘しているように(「日渤交渉における渤海高句麗継承国意識について」『中央大学大学院研究年報』四)、このとき、渤海使は啓(国書)をもたらしていた。したがって『続日本紀』の用例では、使者の奏上に王言(某国王言す)が引用されることが多いが、拝朝の儀では、これだけの表現しかなくても、国書を持参しないとはっきりわかる場合以外は、王言の口奏とともに国書の捧呈が行われており、逆に国書の捧呈のみがみえる場合も、それとほぼ同内容の王言の口奏が行われたと考えてよいと思われる」と述べている。田島公『外交と儀礼』中央公論社〈日本の古代第7巻〉、1986年12月、235頁。ISBN 978-4124025408
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  379. ^ 佐藤 2003, p. 29
  380. ^ 佐藤 2003, p. 130
  1. ^

    官有宣詔省,左相、左平章事、侍中、左常侍、諫議居之。中台省,右相、右平章事、内史、詔誥舎人居之。政堂省,大内相一人,居左右相上;左、右司政各一,居左右平章事之下,以比僕射;左、右允比二丞。左六司,忠、仁、義部各一卿,居司政下,支司爵、倉、膳部,部有郎中、員外;右六司,智、礼、信部,支司戎、計、水部,卿、郎准左:以比六官。中正台,大中正一,比御史大夫,居司政下;少正一。又有殿中寺、宗属寺,有大令。文籍院有監。令、監皆有少。太常、司賓、大農寺,寺有卿。司蔵、司膳寺,寺有令、丞。胄子監有監長。巷伯局有常侍等官。[15](『新唐書』渤海伝)

    官職(は次のようになっている)。宣詔省には左相(長官)・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中台省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、(その下に)左右司政が各一人、左右平章事の下に配置される。これは(唐制の左右)僕射に相当する。左右允は(唐制の)二丞(左丞と右丞)に当たり、左(允)六司は忠・仁・義部(の三部を統率し)、おのおの一人の卿(長官)が配属され、これ(左右允)は司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳(の三)部があって、(それぞれ)部(の長官)は郎中で、員外(郎)もあった。右(允)六司は智・礼・信(の三部を統率し)、その支司に戎・計・水(の三)部があり、(その長官)卿郎は左(允)に準ずるもので、(いずれも唐制の)六官(部)に相当する。中正台には大中正(長官)が一人置かれ、(これは唐制の)御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には(それぞれ長官に当たる)大令がいた。文籍院(の長官)は監令といい、監にはすべて少(監)が属していた。太常(寺)・司賓(寺)・大農寺(の長官)は卿である。司蔵(寺)・司膳寺(の長官)は令で、(次官は)丞といった。胄子監(の長官)は監長といわれた。また、巷伯局には常侍(長官)等の官(名)があった[16]

  2. ^

    北鎭奏 狄國人入鎭 以片木掛樹而歸 遂取以獻 其木書十五字云 寶露國與黑水國人 共向新羅國和通[20](『三国史記』巻十一・新羅本紀・憲康王十二年条)

    北鎮奏す、「狄国人、鎮に入り、片木を以て樹に掛けて帰る。遂に取り以て献ず」と。其の木、一五字を書して云う、「宝露国と黒水国人、共に新羅国に向きて和通せんとす」と[21]

  3. ^

    太宰府言。去三月十一日。不知何許人。船二艘載六十人。漂着薩摩国甑鴫郡。言語難通。問答何用。其首崔宗佐。大陳潤等自書日。宗佐等。渤海国人。彼国王差人大唐。同七月八日 太宰府馳駅言。渤海国人崔宗佐。門孫。宰村等漂着肥後国天草郡。遣大唐通事張建忠。覆問事由。審実情状。是渤海国入唐之使。去三月着薩摩国。逃去之一艦。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)五月二七日)

  4. ^

    (渤海)大使(楊)中遠欲以珍翫玳瑁洒盃等。奉献天子。皆不受之。通事園地正春日朝臣宅成言。昔往大唐。多観珍宝。末有若此之奇怪。(『日本三代実録』八七七年(元慶元)六月二五日)

  5. ^

    明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。(『扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日)

  6. ^

    有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也。(『五代会要』巻三十渤海上)

  7. ^

    萬歳通天中、契丹盡忠殺営州都督趙文翽反、有舎利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奥婁河、樹壁自固[84]。(『新唐書』渤海伝)

  8. ^

    契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利燼、勿吉雜流[86]。(『遼史』巻一一六国語解)

  9. ^

    契丹捨利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称(『資治通鑑』長興三(九三二)年三月条)

  10. ^

    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)

  11. ^

    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)

  12. ^

    越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)





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