ロシア民話の英雄として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 09:58 UTC 版)
「イェルマーク」の記事における「ロシア民話の英雄として」の解説
イェルマークをめぐる伝説は数多く、シベリアの少数民族のあいだでも語られている。教育社歴史新書『コサック』のなかで、著者の阿部重雄は、イェルマークやシビル・ハン国との戦いについて、当時の事実関係は完全には明らかになっておらず、イェルマークらを描いた各種の年代記は、それぞれ口承伝説を元にして作りあげられたのであろうと考えている。 阿部は、定説になった物語に準拠しつつ、以下のような『イェルマーク遠征物語』を示してみせた。 イェルマークの出自については、ドン・コサック出身、ウラル地方出身、イヴァン4世に仕えた貴族の子という説までさまざまである。容貌は、ある年代記には、美丈夫で頑強、弁舌に優れるとあるが、英雄を描くときにはよくある描写であり、信用できない。フィリップ・ロングウォースの著書『コサック』中では、物語によればという断りを入れつつ、 「平たい顔、濃い真っ黒な頭髪、黒い顎ひげ、丈が高く、肩幅の広い」がっしりした体格の持ち主 としている。また、『シベリア年代記』(チシェグロフ原著)によると、イェルマークらがイスケルを占領した日はたまたま致命者(カトリックでいう殉教者)聖ドミトリー・ソロンスキーの記憶日で、神と生神女マリアに祈ってから入城したという。この年代記は、引用している阿部自身、かなり詳しく書かれているが、矛盾やできすぎた話があり完全には信用できないと語る。イェルマークら一行は、イスケルを占領すると、シビル・ハン国をツァーリ・イヴァン4世に献上した、とされている。年代記によると、イェルマークの部下の使者らは、ツァーリにシベリアから黒貂の毛皮2400枚、ビーバーの皮50枚、黒狐の毛皮20枚を献上し、シビル・ハン国の支配権をモスクワのツァーリに献上する旨が記された書状も差し上げた。イヴァン4世はたいそう喜び、使者をねぎらい、褒美を下賜した。。ツァーリの下賜品は、サドーフニコフ『シベリア征服史』では、 なかには皇帝自身その御肩から脱がれてエルマクに賜った毛皮の外套に、二重の鎧、銀鋳の蓋つきカップなどもあった 。 イェルマークの最期は、クチュム・ハーンの謀略におびき出されたことになっている。イェルマークは30人ほどの手勢を率いて出かけ、イルティシ川の川中の島にいるところをクチュム・ハーンの軍勢に襲撃された。激しい暴風雨の荒れ狂う闇夜のことであった。イェルマークは小舟で逃げようとしたが、ツァーリから下賜された甲冑の重みで溺れ死んだと伝えられている。「イェルマーク遠征物語」は、16、7世紀のロシアの民衆の祈りと期待の物語である。まったくの架空のできごとではないが、イェルマークらの勇敢さや苦労ばかりが誇張されて伝わり、やがてイェルマーク信仰と呼べるものになった。イェルマークの遺体や着衣はさまざまな奇跡をもたらした。病人は治り、戦争も商売もうまくいったという。
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