ロシア正教会の高位聖職者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/21 08:58 UTC 版)
「フィラレート (キエフ総主教)」の記事における「ロシア正教会の高位聖職者」の解説
1960年から、事実上、ウクライナにおけるロシア正教会の総主教代理の任にあたり、キエフにある総主教代理の母大聖堂にあたる聖ヴォロディームィル大聖堂に奉職した。 1961年、フィラレートはロシア正教会の命によりアレクサンドリア総主教庁へ使節として赴いた。1962年1月、フィラレートは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の主教輔佐に選立され、同年2月には、レニングラードで府主教ピーメン(Патриарх Пимен;のちモスクワ総主教となる)と他の主教達により、主教に叙聖された。フィラレートは、ロシア正教会の外交的仕事をいくつか任され、1962年から1964年まで、フィラレートはロシア正教会の幾つかの渉外関係に従事し、ロシア正教会のウィーンおよびオーストリアの主教として奉職した。1964年にはモスクワに戻って、ドミートロフの主教、およびモスクワ神学大学と神学校の学長となった。 1966年には大主教となり、その後ほどなくしてキエフとハールィチの府主教となった。このことによりフィラレートがロシア正教会で最も影響力のある主教品になると、キエフ府主教庁はより重要なものと看做されるようになった。この時、フィラレートは、ロシア正教会における最高組織でありモスクワ総主教の選出にあたる、ロシア正教会聖シノドの終身会員になっている。フィラレートが、この150年間で民族的なウクライナ人として初めてキエフ府主教の地位に着いた事は特筆に値する。 ウクライナにおけるロシア正教会の指導者として、フィラレートは、ロシア正教会と協調することを拒否するウクライナの教会、ウクライナ東方カトリック教会およびウクライナ独立正教会への締め付けを公然と支持した。 モスクワ総主教ピーメン1世の健康状態が悪化するにともない、フィラレートは1988年に行われた キリスト教受洗千年祭(ロシア正教千年祭)の準備と祝典挙行を直接取り仕切った。この祝典は、ソビエト連邦と教会の関係見直しの契機となり、ロシア正教会にソ連政府から多くの教会建造物が返還されることともなった。 1990年5月3日にピーメン総主教が永眠すると、フィラレートは広く一般から、ロシア正教会の次期モスクワ総主教選挙における最有力候補と目された。とりわけ、フィラレートが総主教代行となったため、この感は強まった。しかし、1990年6月6日、ロシア正教会の地方公会は、レニングラードとノヴゴロドの府主教であるアレクシイ(俗名アレクセイ・リディゲル)を選び、彼がアレクシイ2世としてモスクワ総主教に着座した。 1990年10月27日、キエフの聖ソフィア大聖堂でアレクシイ2世総主教はフィラレート府主教に自治独立を認めるトモスを渡し(ただしこのトモスは 自治正教会 、独立正教会のどちらの言葉も用いていない)、これまで「キエフ府主教」であったフィラレートを「キエフと全ルーシ・ウクライナの府主教」に任じた。
※この「ロシア正教会の高位聖職者」の解説は、「フィラレート (キエフ総主教)」の解説の一部です。
「ロシア正教会の高位聖職者」を含む「フィラレート (キエフ総主教)」の記事については、「フィラレート (キエフ総主教)」の概要を参照ください。
- ロシア正教会の高位聖職者のページへのリンク