ロシア海軍軍人殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:40 UTC 版)
「幕末の外国人襲撃・殺害事件」の記事における「ロシア海軍軍人殺害事件」の解説
東シベリア総督ニコライ・ムラビヨフは安政6年7月20日(1859年8月18日)に、7隻の艦隊を率いて江戸に来航し、日露国境策定の交渉を開始した。7月27日、海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフおよび1人のまかない係が、横浜の波止場近くで突然数人の武装した日本人に襲われた。まかない係は重傷を負ったものの命は取り留めたが、モフェトとソコロフは死亡した。これが幕末の最初の外国人殺害事件である。ムラビヨフは、ラザフォード・オールコックの勧めにもかかわらず、日本に賠償請求をしなかった。6年後の慶應元年(1865年)、水戸天狗党 の一人で敦賀に幽閉中であった小林幸八が実行犯であることを自供し、5月に横浜で磔刑に処された。 なお、この事件の幕府側責任者は当時外国奉行であった水野忠徳であったが、水野は自らは動かず事件の解決を部下に任せていた。この態度が各国外交団から疎まれ、後に文久遣欧使節の候補となりながら、オールコックの同意が得られず、使節に加わることができなかった。
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