ロシア留学
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かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。他の留学生は、山内作左衛門・緒方城次郎(緒方洪庵の3男。)・大築彦五郎・田中二郎・小沢清次郎であり、この中で家格が一番高い文吉が留学生の組頭となった。閏5月29日に江戸から陸路箱館に向かい、7月28日、箱館からロシア軍艦ボカテール号に乗船し出発した。長崎・香港・ケープタウン・セントヘレナ島・プリマスを経て、フランスのシェルブールに入港。そこから鉄道でサンクトペテルブルクへ行き、翌年2月16日に到着した。到着2日後にロシア外務省へ出頭した際、ロシアへ密出国していた橘耕斎と面会した。また、同年夏には、イギリス留学中の薩摩藩士・森有礼と松村淳蔵がサンクトペテルブルクを訪問、文吉ら留学生と交流している。 1867年(慶応3年)に山内作左衛門が病気で帰国、その他の留学生も幕府崩壊に伴い帰国する中、文吉は一人ロシアに残った。文吉はエフィム・プチャーチン邸に住み、イワン・ゴンチャロフらからロシア語、歴史、数学などを学ぶ。滞在中に、ロシア人女性ワシリー・シュヴィロフと結婚、1870年(明治3年)に息子・アレクサンドルが生まれている。 1873年(明治6年)、岩倉具視率いる使節団がロシアを訪問し、皇帝・アレクサンドル2世に謁見した際の通訳を務めた。
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