ロシア皇帝による国家間の仲裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:13 UTC 版)
「マリア・ルス号事件」の記事における「ロシア皇帝による国家間の仲裁」の解説
翌年2月にペルー政府は海軍大臣ガルシャを訪日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決のために両国間で仲裁契約が結ばれ、両国同意のもとで第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。ロシア皇帝・アレクサンドル2世によりサンクトペテルブルクで開かれた国際仲裁裁判には、日本側代表として全権公使の榎本武揚が出席。1875年(明治8年)6月に法廷は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の要求を退けた。 旧暦7月27日に大江が下した判決は、後に有名になり「奴隷解放事件」と呼ばれた。また、船長側のフレデリック・ヴィクター・ディキンズ弁護士の意見書は、芸娼妓の見直しに繋がり、同年10月の芸娼妓解放令に至る契機となったとされていたが、芸娼妓解放は前年から政府で考えられていたことであり、ディキンズの発言が大きな影響を与えたとは言えないという見方もある。
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