ロシア社会民主労働党の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)
「ウラジーミル・レーニン」の記事における「ロシア社会民主労働党の分裂」の解説
1900年1月に刑期が終了し、プスコフにしばらくとどまったのち7月にスイスへ亡命した。1900年9月、バイエルン王国の首都ミュンヘンに移住し、同年12月には流刑中に結成されていたロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』を創刊した。編集局のメンバーは彼の他にユーリー・マルトフ、ポトレソフ、プレハーノフ、アクセリロード、ザスーリチであった。この新聞を中心とするグループは「イスクラ派」と呼ばれた。ヨーロッパの著名なマルクス主義者が寄稿した『イスクラ』はロシア帝国内へと密輸されたが、そのような地下流通網の構築はオシップ・ピアトニツキーに任せられていた。 ウラジーミルが初めて「レーニン」の筆名を使用したのは1901年12月であり、翌1902年にはこの筆名で『なにをなすべきか?』と題するパンフレットを出版し、前衛党がプロレタリアート革命を指導することの必要性について論じた。レーニンはカール・カウツキーの言葉を引用し、「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」と述べ、この考え方は後に「外部注入論」と呼ばれるようになった。『なにをなすべきか?』の出版は大きな反響を呼び、以降ウラジーミルは「レーニン」の名でロシア帝国のマルクス主義者に広く知られるようになった。 同時期にはミュンヘンで『イスクラ』の執筆を続け、イデオロギー上の対立者や批判者、とりわけ社会革命党(エスエル)に対して攻撃を加えた。1902年4月、バイエルンの警察を恐れたレーニンは『イスクラ』と共にロンドンに移住した。ロンドンでは同胞のマルクス主義者レフ・トロツキーと友人になった一方で、丹毒を患って『イスクラ』編集局で中心的役割を担うことができなくなり、レーニン不在の間に『イスクラ』の本部はジュネーヴに移された。 1903年7月、ロンドンでロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれたが、大会ではレーニンの支持者とマルトフの支持者が激しく対立した。マルトフは、党員は党指導部に縛られることなく独自の意見を表明することを許されるべきと主張したが、レーニンはそれに反対し、強力な指導部が党全体を完全にコントロールすることの必要性を強く主張した。ロシア社会民主労働党はレーニン支持派の「ボリシェヴィキ(多数派)」とマルトフ支持派の「メンシェヴィキ(少数派)」という2つの派閥に分裂し、『イスクラ』編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。党大会後も両者の論争は続き、ボリシェヴィキがメンシェヴィキを「規律を欠く日和見主義・社会改良主義」と批判した一方で、メンシェヴィキはレーニンを「独裁・専制主義者」として非難した。メンシェヴィキに憤慨したレーニンは『イスクラ』編集局を辞職し、1904年5月にメンシェヴィキを批判した著作『一歩前進、二歩後退』を出版した。
※この「ロシア社会民主労働党の分裂」の解説は、「ウラジーミル・レーニン」の解説の一部です。
「ロシア社会民主労働党の分裂」を含む「ウラジーミル・レーニン」の記事については、「ウラジーミル・レーニン」の概要を参照ください。
- ロシア社会民主労働党の分裂のページへのリンク