ロシア第一革命と両派統合の試み
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「ロシア社会民主労働党」の記事における「ロシア第一革命と両派統合の試み」の解説
ボリシェヴィキとメンシェヴィキの当初の対立点は組織問題だったが、論争が展開するにしたがって戦術問題にも対立が波及していった。 1905年に血の日曜日事件によってロシア第一革命が始まると、メンシェヴィキは革命の性格をブルジョア革命と規定した上で「急進的な革命的反政府党」にとどまることを決定した。それに対してボリシェヴィキは「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」というスローガンを掲げ、武装蜂起の準備を進めた。 ボリシェヴィキは同年4月に単独で第三回党大会を開き、中央機関紙として『プロレタリー』を発刊することを決めた。 分裂を嫌う労働者大衆の圧力により、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは統一交渉を始め、1906年4月にはストックホルムで統一党大会(ボリシェヴィキの観点では第四回党大会)が開かれた。この大会ではメンシェヴィキが多数派となった。1907年4月にはロンドンで統一党大会(ボリシェヴィキの観点では第五回党大会)が開かれ、ボリシェヴィキが多数派となった。しかしこの二つの大会は党の分裂を克服することはできなかった。 1906年3月から4月にかけて行われた第一国会の選挙の際、ボリシェヴィキはまだ革命期が続いていると考えてボイコット戦術を取り、メンシェヴィキは選挙に参加した。しかしボリシェヴィキもストックホルム大会の決定を受けてまだ選挙が終わっていない地域の選挙に参加した。社会民主労働党は478議席中18議席を獲得した。1906年7月に第一国会が解散され、第二国会が招集されるとボリシェヴィキはボイコット戦術を放棄し、選挙に参加した。11月から翌年1月にかけて行われた第二国会の選挙では社会民主労働党は518議席中65議席を得た。
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