ロシア第一革命と労農民主独裁論
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「ロシア第一革命と労農民主独裁論」の解説
1905年1月、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件をきっかけに動乱がロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へと発展した。レーニンはこの動乱においてボリシェヴィキがより大きな役割を演じることを要求し、暴力的な蜂起を呼びかけた。1905年8月には『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を出版して革命に対する見解を提示し、ロシアの自由主義的ブルジョワジーは立憲君主制への移行で満足してしまうため革命の遂行を裏切ると予想した上で、プロレタリアートは農民と同盟を結んで君主制を打倒し、臨時的に「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁(労農民主独裁)」体制を樹立する必要があると論じた。 ロシア第一革命への反応としてニコライ2世は十月詔書を発布し、いくつかの自由主義的改革を約束した。レーニンはこの状況下では安全と見てサンクトペテルブルクに帰還した この頃、レーニンは党員からの徴収や裕福な支援者からの寄付だけでは活動資金源として不十分と認識し、郵便局、列車、銀行などへの強盗による資金集めを承認した。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシンの指導下でそのような犯罪行為に手を染め始め、1907年6月にはヨシフ・スターリン指揮下の党員がグルジアのトビリシで帝国銀行に対する武装強盗を決行した。1906年4月にストックホルムで開かれた第4回党大会において、レーニンによる暴力や強盗の支持はメンシェヴィキから激しく非難された。 1907年1月、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公国領クオッカラ地区で生活を始め、当地ではボリシェヴィキの拠点構築に関与した。その後、1907年5月にロンドンで開催された第5回党大会ではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党における支配的勢力を取り戻した。帝政政府が反対派への弾圧を強め、秘密警察機関の「オフラーナ」に革命活動家の逮捕を命じると、レーニンはフィンランド領から逃亡してスイスに移住した。 1908年5月、レーニンは短期間ロンドンで生活し、大英博物館の図書室を利用して『唯物論と経験批判論(英語版)』 を著し、有力なボリシェヴィキであるアレクサンドル・ボグダーノフが主張する相対主義の「ブルジョワ反動的な欺瞞」を攻撃した。レーニンの分派的行動は他のボリシェヴィキとの不和を生み、アレクセイ・ルイコフやレフ・カーメネフといった元々の支持者をも遠ざけた。オフラーナはこのレーニンの傾向を利用し、スパイとしてロマン・マリノフスキーをボリシェヴィキに送り込み、レーニンの分派行動を積極的に支持させることで党内の対立を煽った。 1910年8月にコペンハーゲンで開かれた第二インターナショナル第8回大会にロシア社会民主労働党の代表として参加した後、レーニンは妻や姉らと共にフランスの首都パリに居を移し、当地ではフランス人ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンドと親密な仲になった。一部の伝記作家は1910年から1912年にかけてレーニンがアルマンドと不倫関係にあったと示唆している。1912年1月、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党の協議会を主催したが、召集された参加者18名のうち16名がボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2名だけだった。このプラハ協議会(英語版)でボリシェヴィキは独自に新たな党中央委員会を選出した。党中央委員に選ばれた7名にはレーニン、ジノヴィエフ、オルジョニキーゼの他、帝国のスパイであるマリノフスキーも含まれており、選任されたばかりの委員の多くがロシアへの帰国後に逮捕された。逮捕によって欠員が生じたことを受け、レーニンはスターリンを新たな党中央委員として抜擢した。 1912年7月、レーニンはガリツィア・ロドメリア王国のクラクフに居を移し、そこではヤギェウォ大学の図書館を利用して研究を行った。1913年1月、スターリン(当時のレーニンは「素晴らしいグルジア人」と評していた)がクラクフのレーニンを訪問し、2人は帝国内の非ロシア人民族集団の将来について議論を交わした。その後、レーニンは妻と共に田舎町のビャウィ・ドゥナイェツ(英語版)に移住し、1913年5月には妻クルプスカヤに甲状腺腫の手術を受けさせるためベルンに移った。
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