孤竹国と高句麗との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 01:59 UTC 版)
煬帝の治世、朝鮮半島をめぐり高句麗との関係が緊張したとき、国際通の政治家、裴矩は煬帝に朝鮮領有の必要を説いて次のようにいう。 矩因奏状曰:高麗之地、本孤竹国也。周代以之封於箕子、漢世分為三郡、晋氏亦統遼東。今乃不臣、別為外域、故先帝疾焉、欲征之久矣。高麗(朝鮮半島を指す)の地はもと孤竹国で周代にはここに箕子を封じました。漢代には三郡(楽浪、玄菟、臨屯ないし帯方)に分かれ、晋朝もまた遼東を統べました。ところが今は臣ではなく外域となっています。…陛下のときになってどうしてそのままにして、この、もとは冠帯の地に蛮貊の国にしておくことができましょうか。 — 隋書、裴矩伝 韓国では「高麗之地、本孤竹国也。」を「孤竹国が高句麗を領していた」ではなく、「高句麗が孤竹国を領していた」と解釈する研究者がおり、檀君の実在性を証明する発表会で、이승종(延世大学)は、孤竹国は高句麗系の古朝鮮国家と主張している。ただし、朝鮮古代史学界の権威である盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)や盧泰敦の弟子の宋鎬晸(朝鮮語: 송호정、韓国教員大学)は完全否定しており、そのため、両者は東北工程と日本の植民史観に追従していると非難されている。
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