孤軍奮闘するカポディストリアスと暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「孤軍奮闘するカポディストリアスと暗殺」の解説
一方、カポディストリアスは、ギリシャ人が政治を行うにはまだ能力に欠けているという信念から活動していたため、ギリシャのエリート層や戦争で功績を挙げた者など新体制下で権力や地位を得る事を当然と考えていた人々を政治から遠ざけた。これは社会に影響力をもつ層の反感を買うことになり、特にペロポネソス半島南部のマニで勢力を持っていたマブロミハリス家はカポディストリアスに不満をいだいた。そのため、1830年7月に発生したフランス7月革命の影響からマブロミハリス家の長ペトロベイス (en) はナフプリオンにおいて議会招集を行い、カポディストリアスが停止した議会と憲法の復活を宣言、反カポディストリアス派の多い、イドラ島のギリシャ人らと組んで蜂起しようとした。 カポディストリアスは機先を制してペトロベイスを逮捕、投獄したためにマブロミハリス家はカポディストリアスに激しい憎悪を抱いた。1831年10月9日、仮首都ナフプリオンにおいてマブロミハリス家のゲオルギオス (en) 、コンスタンディノス (en) ら二人によってカポディストリアスは殺害された。 ギリシャが混乱していた頃、英・仏・露の三国は、互いに牽制しつつもギリシャへの影響力を維持したいと考え、1832年6月11日に開かれた会議でギリシャを君主国とすることが正式に決定され新たなロンドン協定が結ばれ、オスマン帝国は償金を得ることを条件に同意した。同年7月にオスマン帝国およびヨーロッパ列強の間で調印されたコンスタンティノープル条約で、ギリシャの独立が正式に認められた。 しかし、カポディストリアス亡き後、弟のアウグスティノス、コロコトロニス、コレッティスらによる暫定統治委員会が設立されたギリシャではアウグスティノス、コロコトロニス派とコレッティス派が対立したために内戦状態に陥っていた。この内戦ではコレッティスが勝利を収め、1832年7月にプロニアで国民議会が開いたが列強三国はこれを認めなかった。そしてコロコトロニスを中心としたカポディストリアス派が11月に独自の軍事委員会と評議会を創設したため、再び両者が激突、これはフランス軍が鎮圧した。 列強はウィーン体制にこだわり、あくまでも共和制の樹立に難色を示し、ギリシャ人の支持のないまま、強制的に王政へと移行された(ギリシャ王国)。列強は、英・仏・露の三国とのつながりが薄いヴィッテルスバッハ家のバイエルン王子オットーを、ギリシャ王オソン1世として即位させたが、これはコレッティス派、カポディストリアス派の戦いが鎮圧された2週間後の事であった。 独立を得たギリシャではあったが、その領土はペロポネソス半島周辺やエーゲ海周辺の一部、大陸ギリシャ南部に限定されており、ギリシャの経済的中心地であったコンスタンティノープル、イズミル、テッサロニキ、アレクサンドリアのいずれもギリシャ領土に含まれていなかった。 結局、ギリシャ王国成立時の人口は約90万人であったが(内、ムスリム6万3千人)、テッサリア、イピロス、マケドニア、トラキア、イスタンブール、イズミルなどギリシャ領とならなかった地域に約200万人のギリシャ人が居住していた。そのため、ギリシャ人の対トルコ闘争は継続されることになった。
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