煬帝の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:55 UTC 版)
楊広は文帝の崩御により、煬帝として即位した。煬帝は即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害し、更に弟の漢王楊諒の反乱も抑えた。こうして兄弟たちを策謀によって殺害して競合相手を消した煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが東都洛陽城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。これらの大土木工事で河南諸郡の100万余の男女が徴発されて労苦に喘いだ。更に大運河工事に関しても煬帝自身の行幸や首都に対する輸出入、軍隊の輸送などに使われて民間への便益は極めて薄かった。煬帝の派手好みは臣下にも広まり、風紀の弛緩を招いた。更に煬帝は当時は従属していた突厥に備えるため、100万余の男女を徴発して長城の修築を行ない、この過酷な労役で多くの男女が命を落とした。煬帝が行幸を東西に繰り返したことも、国庫や民衆に多大な負担をさせるには十分だった。610年1月には洛陽で諸国の朝貢使節を招いて豪勢な接待をしたことも、民衆に多大な災難を招いた。 611年、煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行なった。612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、来護児や宇文述らが指揮官として高句麗を攻めた。しかし1回目の遠征は大敗し、更に兵糧不足もあって撤退する。613年には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は得られず、614年に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を計画する。
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