倭国との関係
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「倭・倭人関連の朝鮮文献」も参照 百済と倭国との関係については『日本書紀』を中心に多様な記録が存在する。『日本書紀』の記録によれば、百済と倭国の間で最初に通交が持たれたのは神功皇后の46年(246年⇒干支二運修正366年)、伽耶諸国の1つである卓淳国の王が、百済が倭国との通交を求めていることを倭国の使者に伝え、これを受けた倭側が百済へ使者を派遣したことから国交が始まったとされる。これに続きいわゆる三韓征伐によって百済、高句麗、新羅が日本への朝貢を約したとされるが、現在では一般的に史実とは見なされない。卓淳国を仲介にして百済との国交が始まったという記事についても、その史実性を正確に求めるのは困難である。ただし、その地理的関係から伽耶諸国を介して百済と倭国の関係が始まったことは概ね認めて良いとされる。 現在残る記録から、倭国は伝統的に朝鮮半島南部への勢力拡大を希求し、百済に対しても上位者として振る舞おうとしたことがわかる。この時代を描写する重要な同時代史料が広開土王碑文として知られる高句麗の記録であり、これによれば391年以来、倭は渡海して百済・新羅を「臣民」としたが、396年に高句麗が百済を破ってこれを「奴客」としたという。更に399年百済が再び倭と通じたが、翌400年には高句麗が新羅に駐留する倭軍を撃破し、404年には帯方に侵入した「倭寇」を高句麗が撃退したと伝える。これに対応すると考えられる『三国史記』の記録が、百済から倭へ太子の腆支を人質に出して好を結んだという阿莘王6年(397年)の記事であり、『日本書紀』にも応神天皇8年(277年⇒干支二運修正397年)で引用されている『百済記』に百済から倭へ王子直支(腆支)を遣わして好を修めたという記述がある。腆支王は即位時には倭国から派遣された100人の護衛に伴われて帰国したという。このように複数の史料が相互に整合性の高い記録を残していることから、この一連の記録の信頼性は高いと考えられている。また、倭国の姿勢を記録した今一つの記録が歴代南朝の史書である。438年に倭王珍が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」の承認を要求し、451年に南朝は倭王済に対して倭本国、新羅、任那、秦韓、慕韓の軍事権を承認したが、南朝と国交のある百済だけは承認せず、倭王武は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されている。 倭の五王の最後である倭王武(雄略天皇)は、恐らく475年の高句麗による漢城の占領と百済の滅亡に関連して南朝の宋に高句麗の非道を訴える上奏文を送っており、『日本書紀』は熊津での百済の復興に当たって雄略天皇がこれを支援したことを記す。当時倭国は独自の天下観念を発達させつつあり、この倭王武(雄略天皇)の行動は百済の一時的な滅亡に伴う混乱の中で、百済を服属下に置き、独自の秩序の再構築を目指していたものであるかもしれない。 6世紀に入ると百済は先述した通り、南方に活路を求めて伽耶地方への勢力拡大を図った。これに関連すると見られる倭側の記録が『日本書紀』「継体紀」にある512年の任那四県割譲の記録である。『日本書紀』の記録では、この割譲に際しては現地の「哆唎国守」とされる穂積押山が、「任那四県は百済と密接な関わりがあり、百済と分離しておいたならば守りえない」という状況分析の下で積極的に百済への割譲に動いたことが記されている。現代の学説においてはこの地域に倭国が実質的な支配権を及ぼしていたとは見なされない場合が多い。 6世紀に新羅が伽耶地方へ勢力を延ばし、金官国(加羅)が滅ぼされた後は、百済も伽耶地方への勢力拡大を目論み、その過程で安羅国に駐在していた任那日本府(在安羅諸倭臣)を交えて新羅への対抗を画策した。しかし、倭本国、現地で独自の活動を行う「日本府」、百済への不信感を募らせる伽耶諸国など、各勢力の思惑により足並みがそろわず実質的な効果をあげることはなかった。 6世紀半ばには百済と高句麗の紛争が再燃すると、百済は倭国の軍事力を引き入れるための外交努力に努め、倭国はその見返りとして様々な文物や技術を要求した。この当時の状況は切迫したものであったらしく、百済は倭国の要望に応じた。そして、倭国は百済に対して、548年に労働者の派遣、550年に武器兵糧の支援、551年に食料の支援を行った。553年には百済は二度に渡り倭国に援軍を要請し、翌554年5月に佐伯連指揮下の倭軍が百済へと渡海した。その後も倭国は百済への援兵として度々朝鮮半島に派兵を行ったが、570年代に入り新羅が「任那の調」を倭国へ送付するようになると、倭国は当面新羅に圧力をかけてそれを確保する外交方策に転じた。 660年に百済が唐によって滅ばされると、倭国は百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣したが、663年の白村江の戦いで完敗を喫して撤退した。
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倭国との関係
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『隋書』倭(俀)国伝によれば、600年に倭王多利思北孤(多利思比孤)が使者を送ってきたとされる(第1回遣隋使)が、この遣隋使の記録は『日本書紀』には無い。使者が「倭王は天を兄とし、日を弟としています」などと説明したため、楊堅は「それは甚だ不合理である」と言ってこれを改めさせたという。
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倭国との関係
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倭国が第2回遣隋使(607年)を遣わしたのがこの煬帝の治世で、「日出處天子致書日沒處天子無恙」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書が倭王から送られている。東夷の島国の王が「天子」を称するのはもとより対等な関係を求め、字面では「没落の途にある皇帝」を意味する「日没處天子(倭で日没は方位を表す程度の表現であった)」という語句に煬帝は喜ばなかったが、当時隋は高句麗遠征を控えて外交上倭国との友好関係は必要と判断し、裴清を倭国へ派遣した。煬帝在位中に遣隋使はこの第2回を含めて計4回も派遣されている。
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