倭国との関係とは? わかりやすく解説

倭国との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)

百済」の記事における「倭国との関係」の解説

倭・倭人関連の朝鮮文献」も参照 百済と倭国との関係については『日本書紀』中心に多様な記録存在する『日本書紀』記録によれば百済倭国の間で最初に通交持たれたのは神功皇后46年246年干支二運修正366年)、伽耶諸国1つである卓淳国の王が、百済倭国との通交求めていることを倭国使者伝え、これを受けた倭側が百済使者派遣したことから国交始まったとされる。これに続きいわゆる三韓征伐によって百済高句麗新羅日本への朝貢約したとされるが、現在では一般的に史実とは見なされない。卓淳国を仲介にして百済との国交始まったという記事についても、その史実性正確に求めるのは困難である。ただし、その地理的関係から伽耶諸国を介して百済倭国の関係が始まったことは概ね認めて良いとされる。 現在残る記録から、倭国伝統的に朝鮮半島南部への勢力拡大希求し百済に対して上位者として振る舞おうとしたことがわかる。この時代描写する重要な同時代史料広開土王碑文として知られる高句麗記録であり、これによれば391年以来、倭は渡海して百済新羅を「臣民」としたが、396年高句麗百済破ってこれを「奴客」としたという。更に399年百済が再び倭と通じたが、翌400年には高句麗新羅駐留する倭軍を撃破し404年には帯方侵入した倭寇」を高句麗撃退した伝える。これに対応する考えられる三国史記』の記録が、百済から倭へ太子腆支人質出して好を結んだという阿莘王6年397年)の記事であり、『日本書紀』にも応神天皇8年277年干支二運修正397年)で引用されている『百済記』に百済から倭へ王子直支(腆支)を遣わして好を修めたという記述がある。腆支王即位時には倭国から派遣され100人の護衛伴われ帰国したという。このように複数史料相互に整合性の高い記録残していることから、この一連の記録信頼性は高いと考えられている。また、倭国姿勢記録した今一つ記録歴代南朝史書である。438年倭王珍が「使持節都督倭・百済新羅任那秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」の承認要求し451年南朝倭王済に対して本国新羅任那秦韓、慕韓の軍事承認したが、南朝国交のある百済だけは承認せず、倭王武百済対す軍事的支配権承認繰り返し要求したことが記録されている。 倭の五王最後である倭王武雄略天皇)は、恐らく475年高句麗による漢城占領百済滅亡関連して南朝の宋に高句麗非道訴え上奏文を送っており、『日本書紀』熊津での百済復興当たって雄略天皇がこれを支援したことを記す。当時倭国は独自の天下観念発達させつつあり、この倭王武雄略天皇)の行動百済一時的な滅亡に伴う混乱の中で、百済服属下に置き、独自の秩序再構築目指しいたものであるかもしれない6世紀に入ると百済先述した通り南方活路求めて伽耶地方への勢力拡大図った。これに関連すると見られる倭側の記録『日本書紀』継体紀」にある512年任那四県割譲記録である。『日本書紀』記録では、この割譲に際して現地の「哆唎国守とされる穂積押山が、「任那四県は百済密接な関わりがあり、百済分離しておいたならば守りえない」という状況分析の下で積極的に百済への割譲動いたことが記されている。現代の学説においてはこの地域倭国実質的な支配権及ぼしていたとは見なされない場合が多い。 6世紀新羅伽耶地方勢力延ばし金官国加羅)が滅ぼされた後は、百済伽耶地方への勢力拡大目論み、その過程安羅国に駐在していた任那日本府(在安羅諸倭臣)を交えて新羅への対抗画策した。しかし、倭本国現地で独自の活動を行う「日本府」、百済への不信感募らせる伽耶諸国など、各勢力思惑により足並みがそろわず実質的な効果をあげることはなかった。 6世紀半ばには百済高句麗紛争再燃すると、百済倭国軍事力引き入れるための外交努力努め倭国はその見返りとして様々な文物技術要求した。この当時の状況切迫したものであったらしく、百済倭国要望応じた。そして、倭国百済に対して548年労働者派遣550年武器兵糧支援551年食料支援行った553年には百済二度渡り倭国援軍要請し、翌554年5月佐伯連指揮下の倭軍が百済へと渡海した。その後倭国百済への援兵として度々朝鮮半島派兵行ったが、570年代入り新羅が「任那の調」を倭国送付するうになると、倭国当面新羅圧力をかけてそれを確保する外交方策転じた660年百済が唐によって滅ばされると、倭国百済復興全面的に支援することを決定し倭国人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫からなる救援軍派遣したが、663年白村江の戦い完敗喫して撤退した

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倭国との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 14:56 UTC 版)

楊堅」の記事における「倭国との関係」の解説

『隋書』倭(俀)国伝によれば600年倭王多利思北孤多利思比孤)が使者送ってきたとされる第1回遣隋使)が、この遣隋使記録『日本書紀』には無い。使者が「倭王は天を兄とし、日を弟としています」などと説明したため、楊堅は「それは甚だ不合理である」と言ってこれを改めさせたという。

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倭国との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 00:47 UTC 版)

煬帝」の記事における「倭国との関係」の解説

倭国第2回遣隋使607年)を遣わしたのがこの煬帝の治世で、「日出處天子致書日沒天子無恙」(日出づる処の天子、書を日没する処天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書倭王から送られている。東夷島国の王が「天子」を称するのはもとより対等な関係を求め字面では「没落の途にある皇帝」を意味する日没天子(倭で日没方位を表す程度表現であった)」という語句煬帝は喜ばなかったが、当時隋は高句麗遠征控えて外交倭国との友好関係は必要と判断し裴清倭国派遣した煬帝在位中に遣隋使はこの第2回含めて計4回も派遣されている。

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