倭国と高句麗の戦争とは? わかりやすく解説

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倭国と高句麗の戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:29 UTC 版)

伽耶」の記事における「倭国と高句麗の戦争」の解説

詳細は「好太王碑」、「三韓征伐」、および「倭・倭人関連の朝鮮文献」を参照 4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば391年、倭が百済新羅破り臣民とする。393年には倭が新羅王都包囲する三国史記では397年百済倭国阿莘王王子腆支人質送り国交結んだ。いったん高句麗従属した百済が、399年高句麗裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅王都攻撃していた。高句麗広開土王新羅要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那加羅の従抜城に退かせ高句麗軍はこれを追撃した。『三国史記』では402年新羅倭国奈勿尼師今の子未斯欣人質送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界(帯方郡との境)にまで倭が攻め込んでいる。 405年倭国人質となっていた百済王子の腆支が、倭国護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位するこのように本国朝鮮半島対す影響力強大であった。なお三国史記では、この時期加羅に関する直接的記述空白となっている。 日本書紀では、249年もしくは369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后新羅親征服属させた三韓征伐記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自㶱(ひじほ)、南加羅(ありひしのから)、㖨国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。

※この「倭国と高句麗の戦争」の解説は、「伽耶」の解説の一部です。
「倭国と高句麗の戦争」を含む「伽耶」の記事については、「伽耶」の概要を参照ください。

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