倭国および任那との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:29 UTC 版)
詳細は「任那」および「任那日本府」を参照 加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたとする説もある。 倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。または「韓は南は倭と接する」とある。 また高句麗『広開土王碑』について改竄説が否定されたことで、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、任那加羅の従抜城を守らせた。 日本列島での事例が大半である墓形式の「前方後円墳」が朝鮮半島でも幾つか発見されており、これまで全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。1983年、姜仁求(嶺南大学)は、慶尚南道の松鶴洞1号墳について、全長66メートル、後円径37・5メートルと実測し、後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵が1914年に発掘した竪穴式石室の一部であり、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であると発表した。しかし、その後、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので、前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっていると指摘されている。 朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう。そのほか、新羅・百済・任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られること や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明したことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。 任那は、倭国(日本)が朝鮮半島における勢力を失い、任那地域が百済と新羅に占領された後も、百済と新羅は占領した任那地域を代表する体裁で、倭国に対して「任那の調」と呼ばれる貢納をおこなっていた。
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