中期:熊津時代(475–538年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)
「百済」の記事における「中期:熊津時代(475–538年)」の解説
王都漢城を失った475年当時、王子文周は救援を求めるために新羅に派遣されていた。彼は新羅の援軍を連れて帰還したが、既に漢城は陥落しており、翌月に文周王として即位した。 彼は都を南方の熊津(現・忠清南道公州市)に遷し、百済を復興した。この時、高句麗から逃れた貴族たちが熊津に流入し、王族と共に主要官職を抑えていた解氏なども加わっていた。文周王は王弟昆支を内臣佐平、解仇を兵官佐平にあてたが、昆支が死ぬと解仇が実権を握り、478年には解仇によって暗殺された。太子三斤が即位したが、わずかに13歳であり、軍事的、政治的な権限は完全に解仇の手に渡った。にも関わらず、翌年には解仇が恩率(第二等官位)燕信とともに反乱を起こした。三斤王はかつて腆支王の即位に反対したため権力から遠ざけられていた別の貴族真氏を登用してこれを討伐した。この時の反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によるならば2,500名あまりであり、反乱した解仇側の兵力は不明であるがこれと大差ないものと見られている。この兵力の少なさは、漢城周辺を失った百済がいかに弱体化していたかを証明しているものであろう。 479年、東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めた。一つは漢城時代に権勢をふるった解氏、真氏などの伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり、今一つは南方地域への拡大である。東城王は新羅と結んで高句麗の軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図った。 権力闘争の中で東城王が暗殺された後、501年に即位したのが武寧王である。彼は1971年に発見された武寧王陵から多様な副葬品が出土した事で名高い。熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王は南朝および倭国との関係を深め、更に領内の支配強化を目指した。彼は領内に22の拠点を定め、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、南西方面での勢力拡張を図った。『日本書紀』には、この頃に日本から百済へ任那四県を割譲したという記録があり、これは百済の政策と関係するものと考えられている。ただしこの頃に実際に倭国が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方が強い。513年には伽耶地方の有力国伴跛から己汶、帯沙を奪い、朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った。 武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝の梁に新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を付庸していることを語り、倭国へは南方進出の了解や軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた。以後、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく。
※この「中期:熊津時代(475–538年)」の解説は、「百済」の解説の一部です。
「中期:熊津時代(475–538年)」を含む「百済」の記事については、「百済」の概要を参照ください。
中期‐熊津時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/31 14:03 UTC 版)
475年 百済文周王即位し、熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。 477年 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。 479年 百済東城王即位 490年 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。 495年 高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する。 501年 東城王暗殺され、武寧王即位。 503年 百済武寧王、倭国に遣使。 523年 百済聖王(聖明王)即位
※この「中期‐熊津時代」の解説は、「百済史年表」の解説の一部です。
「中期‐熊津時代」を含む「百済史年表」の記事については、「百済史年表」の概要を参照ください。
- 中期:熊津時代のページへのリンク