中期、指揮と録音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 08:34 UTC 版)
「ヨハン・シュトラウス3世」の記事における「中期、指揮と録音」の解説
1907年、妻子とともにベルリンに移住し、以後はそこを活動の中心とした。ヨハン3世とその楽団は、ベルリンを基地としてヨーロッパ中を演奏して回るのが常となった。第一次世界大戦が勃発すると、ドイツのコンサートホールは陸軍病院として徴発され、ヨハン3世は楽団解散に追い込まれた。1915年秋から1916年5月末までは小規模な室内アンサンブルで演奏し、以後は主として客演指揮者として活動するようになった。1916年、父エドゥアルトが死去する少し前にウィーンに戻ったが、2年も経たないうちにまたベルリンに帰った。 「ヨハン・シュトラウス」という大きな名前と大きな遺産の守護者としての自覚から、ヨハン3世は一家の音楽を引き続き活性化させようと努力した。1921年から1925年にかけてのヨハン3世の活動は特に旺盛で、ドイツだけに限定しても187もの違ったオーケストラを指揮した計算になる。ヨーロッパ中を駆け回ったヨハン3世だったが、ジャズの本場であるアメリカへの巡業にはきわめて消極的だった。1914年7月にアメリカ巡業の話が持ち込まれたときも、ヨハン3世はこれを断った。ヨハン3世がアメリカへの演奏旅行を実行したのは、1934年11月になってからのことであった。 「 黒人音楽への関心がどこへ行っても薄れてきたことは察知できるが、それでも私は、最後のかび菌が消え、私の音楽が大衆でいっぱいになる場を再び確保したと確信できるまでは、ジャズが本場への国へは行かないつもりだ。(1925年の発言) 」 中期のヨハン3世は、積極的に録音活動も行った。1903年4月、ドイツ・グラモフォンからヨハン3世の指揮したシュトラウス一族の作品のレコード8枚が発売された。1909年、トーマス・アルバ・エジソン・ナショナル・フォノグラフ(英語版)社と専属契約を結び、エジソン・ベルリン・レコーディング・ラボトラリーの相談役・顧問役も務めた。契約を結んでいた3年間、ヨハン3世は自身の管弦楽団とともに158もの蝋管に録音した。彼がこの間に演奏した作品は、シュトラウス一族のものだけではなく、レハール、ワルトトイフェル、リンケ、スッペ、ツィーラー、ベルリオーズ、ショパン、サン=サーンス、フロトー、オーベールなど多岐にわたる。ヨハン3世の今日最も有名なレコードは、1927年にロンドンで作られたコロムビア・レーベルのための18曲の録音である。
※この「中期、指揮と録音」の解説は、「ヨハン・シュトラウス3世」の解説の一部です。
「中期、指揮と録音」を含む「ヨハン・シュトラウス3世」の記事については、「ヨハン・シュトラウス3世」の概要を参照ください。
- 中期、指揮と録音のページへのリンク