中期・小国外交の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中期・小国外交の時代の意味・解説 

中期・小国外交の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:30 UTC 版)

春秋時代」の記事における「中期・小国外交の時代」の解説

この邲の戦い以降諸侯同士争い少なくなる。その理由は、諸侯の下にいた大夫(たいふ)・士(し)と呼ばれる中級から下級貴族階級勃興して、彼らに諸国実権移り他国との争いよりも国内での同格貴族たちとの争い忙しくなったからである。 これら諸国実権握った貴族としては、晋の六卿、斉の六卿三桓、鄭の七穆などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟結んで他の貴族対立することもあり、時には君主とも対立し君主殺害するようなこともあった。これらの現象伝統的な身分体制の崩壊表している。この時期儒教起こした孔子このような伝統体制の崩壊対す憤慨がその学の源となった考えられている。 こういった背景から国同士対立はあまり望まれなくなり紀元前546年に弭兵の会が晋との間で行われた。弭兵(びへい)とは戦い止めるということである。 貴族たちの伸張それまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政舞台押し上げ、この時期には名宰相呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の晏嬰・鄭の子産・晋の羊舌肸などがいる。また大国同士直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や孔子などの活躍する小国外交活発になった。子産中国初の成文法制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律それまで上流階級の中で暗黙の了解行われていたが、新しく勃興してきた層階級人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなった考えられるこの頃になると君主貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、斉ではかつて陳より亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、では有力貴族王族との争い国政混乱した

※この「中期・小国外交の時代」の解説は、「春秋時代」の解説の一部です。
「中期・小国外交の時代」を含む「春秋時代」の記事については、「春秋時代」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中期・小国外交の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

中期・小国外交の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中期・小国外交の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの春秋時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS