名宰相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 02:37 UTC 版)
その後、景公に信任されて宰相の地位に上り、田氏一門の司馬穰苴を推薦した。 紀元前540年に晋へ使節に行った時[要出典]に晋の名臣の羊舌肸(叔向)と会い、「田氏(陳無宇・田乞父子)は民に対して恵みを与えて人気を取っているので、いずれ斉は田氏に取って代わられるかもしれない」と言った。この言葉は約150年後に実現することになる。 また使節として楚へ行った際に、楚の霊王は斉を侮り、晏嬰を辱めんとした。楚の城門に来た晏嬰がひどい小男なのを見て、楚の者は大門の横の狭い潜り戸に晏嬰を案内した。晏嬰は「犬が入る門で他国の使節を迎えるのは、犬の国のすることであろう。自分は今日、使節として来た。楚国は私を、この戸から入らせてよいのか」と言った。そこで楚の者は、大門を開いて晏嬰を入らせた。 霊王に会見すると、霊王は貧相な晏嬰を見て「いったい、斉には人がいないのか」と言った。晏嬰は答え「人がいないことがありましょうか。斉の臨淄は街路300余り、人々が袖を広げれば日も遮られ、人々が汗をふるうと雨となり、肩と肩、踵と踵がぶつかるほどに人がいます」。霊王「では何故、貴殿のような者を使節によこしたのか」。晏嬰「斉が使節を任ずるには適性を考慮し、賢王のもとには賢者を、不肖の王侯には不肖の者を使節に遣わします。自分は最も不肖なる者ゆえ、楚国に使節として使わされました」と答えた。 また会見の宴のさなか、役人が縛られた者を連れてきた。霊王は「それは何者か」と聞いた。役人は「斉人です」と答えた。霊王はまた「何をしたのか」と聞いた。役人は「泥棒です」と答えた。霊王は晏嬰に向かい「斉の者は盗みが性分なのかね」と聞いた。晏嬰は、「江南に橘という樹があります。これを江北に植えると橘と為らずして、棘のある枳と為ります。これは土と水のためです。斉人は斉に居りては盗まず、その良民が楚に来たれば盗みをいたします。何故でしょうか?楚の風土のせいでございましょう」。霊王「聖人に戯れんとして、却って自ら恥をかいたか」と苦笑いした(故事成語「南橘北枳」の語源)。横道で天下に悪名高い霊王をへこませたことで、彼の名は更に上がった。 その後も折に触れ、景公に対して諫言を行った。紀元前500年に晏嬰は妻に対して家法を変えぬようにと遺言して死去した。晏嬰が危篤に陥った時、景公は海辺に遊びに行っていた。そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、馬車に飛び乗って臨淄に向かった。景公は馬車の速度が遅いと、御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。それでも遅いので、ついには自分の足で走った。晏嬰の邸に着くと、家に入り、遺体にすがって泣いた。近臣が、「非礼でございます」と言ったが、景公は「むかし夫子(晏嬰のこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを責めた。いま誰が寡人(わたし)を責めようか」と言い泣き続けた。 死後、「平」を諡され、晏平仲と呼ばれるが、後世の人々は晏子と尊称した。
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