名宰相の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 21:25 UTC 版)
だが、マラーター王となったシャーフーの権力は不安定であり、ムガル帝国との争いのみならず、王国内でもターラー・バーイーが隠然たる力を保持していた。そうしたなか、ラージャーラーム以来の武将らが没し、シャーフーを支えたバーラージー・ヴィシュヴァナートが台頭し、1713年にシャーフーは彼を王国の宰相に任命した。 この頃、ムガル帝国もまた、アウラングゼーブの死後に3人の息子が争うなど、長期にわたる帝位継承戦争が続いた。この戦争はファッルフシヤルがサイイド兄弟の力を借りて、1713年1月にジャハーンダール・シャーを打ち破り終わったが、ムガル帝国の国力を大きく削いだ。 この間、シャーフーは帝国の宰相ズルフィカール・ハーンと、1711年にデカン総督ダーウード・ハーン・パンニーが私的な取り決めを再確認した。その取り決めでは、マラーター王国にチャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)とサルデーシュムキー(諸税の10分の1を別に徴収する権利)を認めていたが、それは帝国の官吏が徴収し、マラーター側に渡すというものであった。1シャーフーはムガル帝国の名目的な宗主権は認めていたが、更なる見返りとして、1714年にはフルダーバードにあるアウラングゼーブの墓廟に訪れ、裸足になって恭順の意を示した。 一方。ズルフィカール・ハーンに代わってデリーの実権を握ったサイイド兄弟は、マラーターに対する脅威を払拭しようと考えた。そして、1715年から軍務大臣フサイン・アリー・ハーンはデカン総督として着任し、マラーターと戦闘を行った。 1718年7月、バーラージー・ヴィシュヴァナートとフサイン・アリー・ハーンは、ムガル・マラーター間で次のような協定を結んだ。 ムガル帝国はシヴァージー時代の領土をマラーター王国の領土として認める。 ムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタおよびサルデーシュムキーをマラーターに認める。 マラーター王国はムガル帝国が必要としたとき、騎兵15,000兵を援軍として派遣する。 マラーター王国はデカンにおける略奪及び反乱に歯止めをかけ、毎年100万ルピーを支払う。 また、同年9月にフサイン・アリー・ハーンが皇帝ファッルフシヤルにデリーに帰還するように命じられると、11月にバーラージー・ヴィシュヴァナートは彼に同行し、1719年2月に皇帝ファッルフシヤルの廃位に加担した。ファッルフシヤルはムガル・マラーター間での締結された条約を認めていなかったため、3月に新たな皇帝ラフィー・ウッダラジャートが条約を承認した。
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