体制の崩壊とは? わかりやすく解説

体制の崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 22:21 UTC 版)

薩埵山体制」の記事における「体制の崩壊」の解説

ところが、正平13年/延文3年1358年)に尊氏死去体制動揺与えた成長した基氏が自ら鎌倉府率いることを志向するようになり、畠山国清齟齬生じるようになっていったのである。 翌正平14年/延文4年1359年)、基氏は2代将軍となった兄の義詮南朝討伐支援することを名目に国清に東国勢を率いさせて上洛させた。これは名目義詮からの要請であるが実際は基氏独自の判断よるものであり、父の死去に伴う地域内の動揺外征によって抑えようとする意図があったと見られている。だが、この遠征南朝方の激し抵抗によって挫折東国勢の中には逃げ帰るものも相次いだ。この遠征の失敗主導した基氏の責任問われるものであったが、基氏の失脚鎌倉府自体崩壊導きかねない以上、代わりに関東執事実際に軍を率いた国清が補佐軍事両面責任問われることとなった正平16年/応安元年1361年)、追いつめられた国清は伊豆挙兵した。基氏は翌正平17年/貞治元年1362年)に兵を率いて入間川出て伊豆向かい反乱鎮圧して国清を追放したその後、基氏は鎌倉帰還し二度と入間川に入ることはなかった。 国清の失脚薩埵山体制崩壊意味するものとなった同年越後突如鎌倉府から室町幕府の管国に再移管され、その守護として追放された筈の上憲顕が補任されたのである義詮・基氏兄弟は共に幼時より自分扶育務めた憲顕の赦免復権積極的であり、憲顕を最後まで許さなかった父が死去した後にその機会窺っていたのであった。これによって宇都宮氏綱自動的に越後守護を更迭されることになり、激しく反発した翌年、基氏の命令越後より鎌倉入りをしようとした憲顕が宇都宮氏任じた上野守護代芳賀禅可襲撃される事件発生する。難を逃れた上杉憲顕関東管領(かつての関東執事)に復帰し、更に基氏は憲顕襲撃反逆行為認定して宇都宮氏綱の上野守護をも更迭して憲顕を後任とした上で宇都宮氏討伐向かった。氏綱は降伏余儀なくされ、同年には河越直重相模守護更迭されている。これによって薩埵山体制名実ともに崩壊追い込まれ以後鎌倉公方関東管領上杉氏補佐する体制移行する

※この「体制の崩壊」の解説は、「薩埵山体制」の解説の一部です。
「体制の崩壊」を含む「薩埵山体制」の記事については、「薩埵山体制」の概要を参照ください。

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