大阪会議体制の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:52 UTC 版)
難産の末に確立された新体制であったが、ほどなく地方官会議の権限をめぐって木戸と板垣が対立するようになり、さらに参議と各省の卿の分離問題で、両者は決定的な対立を迎える。折から発生した江華島事件の処理をめぐる意見対立も重なり、板垣はついに参議を辞任した。大阪会議体制はわずか半年にして崩壊する。板垣とセットで入閣した木戸の発言力も必然的に下がり、さらにこの頃より持病の悪化から表立った政治活動を行いにくくなったこともあり、木戸の政府内での地位も低下した。 また一時期、板垣と連携する動きを見せた左大臣・島津久光が、自身の主張が認められないため辞表を提出し、岩倉・大久保らが主導権を握る体制に戻った。ここに大阪会議で決定された新体制は完全に崩壊した。結果として大阪会議以前の大久保主導の体制が強化された形で復活した。短期間だったが、この大阪会議で将来的な立憲政体・議会政治の方向性が示された。
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