体制の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 22:21 UTC 版)
憲顕は命は助けられたものの、関東執事と越後・上野の守護の地位を剥奪された。既に高師冬も殺害されて関東執事が空位になったことから、尊氏は畠山国清を伊豆の守護を兼ねさせて後任として鎌倉に派遣し、下野の宇都宮氏綱を越後・上野両国の守護に任命、武蔵の河越直重を相模の守護に任命した(なお、氏綱の越後守護補任にあたって同国が鎌倉府の管国移管された可能性が高い)。畠山・宇都宮・河越の3者はいずれも薩埵山の戦いで戦功を挙げた武将であり、特に宇都宮氏・河越氏の両氏はこれまで守護に補任されたことがない外様の武家であった。この人事は彼らに対する褒賞であると同時に新田氏や上杉氏の反抗に対して睨みを利かせることも目的の一つとした。 また、畠山国清が正平8年/文和2年(1353年)に基氏を奉じて鎌倉府の機能を武蔵入間郡入間川に設置した入間川御陣に移した点も重要視される。これは新田氏や上杉氏の残党と対峙する外来の守護である宇都宮氏に対する支援の意味も含まれており、更に同地を本拠としていた武蔵平一揆及びその首領である河越直重の地位を高める効果もあったと見られている。この年、南朝軍の京都占領によって後光厳天皇が美濃に追われた事を知った尊氏が鎌倉より上洛する際に東国勢の働きぶりは東寺合戦などで遺憾なく発揮され、新体制による関東統治の順調な開始を印象付けることに成功した。この体制を後世の歴史学においては「薩埵山体制」と称したのである。
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