エジョフ体制の成立
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ソ連では1934年7月以来内務人民委員部(NKVD)(エヌ・カー・ヴェー・デー)が秘密警察としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮を執っていたが、スターリンはその長官ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと考え、1936年9月26日に更迭した。ヤゴーダも1937年に逮捕され、1938年3月に銃殺された ヤゴーダの後任のニコライ・エジョフの下で、粛清の規模は一気に拡大した。スターリンに抜擢されたエジョフは、その期待に応えるべくまずNKVDのヤゴーダ体制の刷新にあたった。NKVDの体制の刷新はエジョフが長官に就任した1936年9月の前後と1937年2月から3月の間の中央委員会総会中の二度にわたって大きく行われた。1936年9月前後の刷新は、要職をエジョフ派で固めることであり、ヤゴーダ派の左遷であった。続く1937年の総会中の刷新がヤゴーダ派の粛清を意味していた。 この中でエジョフが自らの側近に選んだのは、ミハイル・フリノフスキー、レオニード・ザコーフスキー、ベールマン兄弟などであった。また1937年半ばに粛清したが、ヤーコフ・アグラーノフも初めは重用していた。前長官ヤゴーダ、および明確なヤゴーダ側近だったパウケル、ゲオルギ・モルチャーノフ、プロコーフィエフらは総会中に粛清された。ヤゴーダ派とされた下々の機関員達もこの時期に大量粛清されている。 大量粛清でNKVDの組織を固めたエジョフは、共産党幹部たちを徹底的に調査させ、政治的逮捕の組織化を行うとともに、地域ごとの逮捕人数の割当まで指示している。エジョフ就任直後の1936年秋ごろから逮捕の範囲が一気に拡大している。また粛清の理由として「右翼」「トロツキスト」「ジノヴィエフセンター」「日独ファシストの手先」などかねてからのレッテル貼りに加えて「産業破壊活動」を理由にするようにもなった。ソ連の経済的混乱・貧困などスターリンの失政を「反ソ分子の陰謀」のせいにして覆い隠すためであった。
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