17世紀危機と主権国家体制の成立
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「近世における世界の一体化」の記事における「17世紀危機と主権国家体制の成立」の解説
詳細は「宗教改革」、「三十年戦争」、および「ヴェストファーレン条約」を参照 ヨーロッパ全体でみると、17世紀のヨーロッパは、16世紀の好況から転じて全般的に不況におちいった。これは「17世紀の危機」と称されている。気候が寒冷化して農作物の不作が続き、疫病が流行して人口も減少した。1517年にマルティン・ルターが『95ヶ条の論題』を発表して以降は、カトリック、プロテスタント間の宗教対立が各地で激化し、魔女狩りも横行した。このような状況のもと、ヨーロッパ各国の王は新税を課し、中央集権を強化しようとしたので、貴族などが反発し、農民一揆もかさなって混乱がつづいた。スペインの財政破綻もその一例であるが、17世紀における最大の混乱は三十年戦争だった。 三十年戦争は、神聖ローマ帝国における宗教対立と複雑な地域の事情が複合してはじまった。ほとんどヨーロッパ中の国々が介入したこの戦いによってドイツの人びとの生活はふみにじられ、その社会は荒廃した。1648年のウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国内の各領主は主権を認められ、カルヴァン派は公認されて、オランダとスイスの独立も正式に承認された。結果としてみればハプスブルク家の完敗であり、同家はこののち、その軸足をオーストリアに移すこととなる。 16世紀以降、ヨーロッパでは、イタリア戦争、ユグノー戦争、フロンドの乱、三十年戦争など各地で戦争や内乱がつづいたが、その間に、列国は領土を広げ、財政と軍備を整えただけでなく、海外にも進出して覇権をきそい、植民地を広げた。 こうした弱肉強食の戦争と競争をくり返した16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、新しい国際秩序ができあがっていった。オランダのフーゴー・グロティウスは国際法の確立を提唱し、それぞれ主権を主張する国々は、宗教や文化の違いをこえて対等に外交交渉をくり返し、戦争のルールを定め、勢力均衡をはかることとした。この主権国家体制はウェストファリア条約に結実し、その後、現代にいたるまで国際秩序の基本となっている。
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