17世紀危機と主権国家体制の成立とは? わかりやすく解説

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17世紀危機と主権国家体制の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)

近世における世界の一体化」の記事における「17世紀危機と主権国家体制の成立」の解説

詳細「宗教改革」、「三十年戦争」、および「ヴェストファーレン条約」を参照 ヨーロッパ全体でみると、17世紀ヨーロッパは、16世紀好況から転じて全般的に不況おちいった。これは「17世紀の危機」称されている。気候寒冷化して農作物不作続き疫病流行して人口減少した1517年マルティン・ルターが『95ヶ条の論題』を発表して以降は、カトリックプロテスタント間の宗教対立各地激化し魔女狩り横行したこのような状況のもと、ヨーロッパ各国の王は新税を課し中央集権強化しようとしたので、貴族など反発し農民一揆かさなって混乱つづいたスペイン財政破綻もその一例であるが、17世紀における最大混乱三十年戦争だった。 三十年戦争は、神聖ローマ帝国における宗教対立複雑な地域の事情複合してはじまった。ほとんどヨーロッパ中の国々介入したこの戦いによってドイツ人びとの生活はふみにじられ、その社会荒廃した1648年ウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国内の領主主権認められカルヴァン派公認されて、オランダスイス独立正式に承認された。結果としてみればハプスブルク家完敗であり、同家こののち、その軸足オーストリアに移すこととなる。 16世紀以降ヨーロッパでは、イタリア戦争ユグノー戦争フロンドの乱三十年戦争など各地戦争内乱つづいたが、その間に、列国領土広げ財政軍備整えただけでなく、海外にも進出して覇権をきそい、植民地広げたこうした弱肉強食戦争競争くり返し16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、新し国際秩序できあがっていった。オランダフーゴー・グロティウス国際法確立提唱しそれぞれ主権主張する国々は、宗教文化の違いをこえて対等に外交交渉くり返し戦争ルール定め勢力均衡をはかることとした。この主権国家体制ウェストファリア条約結実しその後現代にいたるまで国際秩序基本となっている。

※この「17世紀危機と主権国家体制の成立」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
「17世紀危機と主権国家体制の成立」を含む「近世における世界の一体化」の記事については、「近世における世界の一体化」の概要を参照ください。

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