17世紀当時の外典
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「シェイクスピア外典」の記事における「17世紀当時の外典」の解説
扉ページにシェイクスピアの名前(もしくは「Will.S」などのイニシャル)を付して17世紀に四折判で刊行されていながらも、ファースト・フォリオには未収録の戯曲がいくつかある。シェイクスピア愛好家の多くは、これらの戯曲のうちのいくつかはシェイクスピアによって(少なくとも部分的には彼によって)書かれたものだと信じており、実際『ペリクリーズ』などのように専門の研究者によって真作と認定されたものもある。しかし『トマス・クロムウェル』といったそれ以外の作品はあまりにも出来が悪く、とうていシェイクスピアの作品であるとは考えられない。 ヘミングスとコンデルがこれらの作品をファースト・フォリオから除外した理由はいくつか考えられる。 扉ページに書かれている著者名は単なる虚偽であり、イカサマ出版業者がシェイクスピアの名声を利用したにすぎない。 これらの戯曲はシェイクスピアと他の劇作家との合作であり、シェイクスピアの単独作ではない(ただし、現代の文体分析からやはり合作の可能性が高いことが証明されている『ヘンリー八世』、『ヘンリー六世 第1部』、『アテネのタイモン』などは除外されていないことには注意が必要である)。 シェイクスピアによるものであることは確かだが、シェイクスピアが一から執筆したのではなく、他人の作品を編纂・改作しただけなのかもしれない。あるいは、書いたのは他の人間であるもののシェイクスピアによるプロットを原案にしていたため名前が記されたのかもしれない。 それらの作品は国王一座以外の劇団のために書かれたシェイクスピアの初期作品であり、したがってファースト・フォリオを編纂していたヘミングスとコンデルは著作権をもたないため収録できなかったのかもしれない。 これらはいずれも可能性のある推測であるにすぎず、どれか一つが正しい答えというわけではない。個々の作品についてそれぞれの事情に鑑みる必要がある。 マーリンの誕生 (The Birth of Merlin) シェイクスピアとウィリアム・ロウリー(William Rowley)の合作と銘打って1662年に出版された。しかし、この戯曲はシェイクスピアの死後6年を経た1622年に書かれたものであるという明白な証拠があるため、これは明らかに虚偽もしくは誤記である。そもそも、シェイクスピアとロウリーはライバル関係にあった二つの劇団の主力劇作家だったので、この二人が合作を行なったということ自体がありそうにもないことである。作品の出来自体は「面白く、華やかで、テンポが速い」と評されているが、それでも「エイヴォンの白鳥の天才の痕跡はまったく認められない」というヘンリー・タイレル(Henry Tyrrel)による批評が文学者たちのあいだでの総意である。またC・F・タッカー・ブルック(C. F. Tucker Brooke)は、この作品がシェイクスピアのものであるという説が現れたのは、むしろ本当の作者ロウリーが意識的にシェイクスピアの模倣をしていたためではないかと補足している。 ロークリンの悲劇 (Locrine) 「W.S.監修による新作」として1595年に発表された。この戯曲の格式ばった形式的韻文は決してシェイクスピア的ではないが、シェイクスピアが古くからある作品を改訂したのかもしれないと考えることは不可能ではない。同じ「W.S.」のイニシャルをもつ無名の劇作家ウェントワース・スミス(Wentworth Smith)が本当の作者であった可能性もある。 ロンドンの道楽者 (The London Prodigal) シェイクスピアの名前で1605年に出版された。国王一座の作品なのでシェイクスピアがこの作品の成立に少しばかり関わった可能性はあるが、タッカー・ブルックもいうように「シェイクスピアの普遍性と精神的な洞察が著しく欠如している」。フレデリック・ガード・フレイ(Frederick Gard Fleay)は、シェイクスピアが大雑把に書き残した粗筋をもとに他の作家が執筆したものであるかもしれないと仮定している。 ペリクリーズ (Pericles) 1609年にシェイクスピアの名前で刊行。前半と後半で文体が異なることなどから、最初の2幕は別の劇作家によって書かれた合作であると推測される。ニコラウス・デリウス(Nicolaus Delius)がこの合作者はジョージ・ウィルキンズ(George Wilkins)であろうとの学説を1868年に提示したほか、ジョン・デイ(John Day)を執筆協力者とする説もある。ゲイリー・テイラー(Gary Taylor)がいうように、ジャコビアン時代に「シェイクスピアの詩的文体は(信頼に値しないテキストにおいてさえ)同時代の他の作家と比較して著しく際立ったものとなった」ため、後半5分の3ほどはシェイクスピアの文体に他ならないということは学者たちのあいだで意見が一致している。 ピューリタン (The Puritan) 「W.S.」作として1607年に出版された。この戯曲はトマス・ミドルトンによるものというのが通説となっているが、『ロークリンの悲劇』と同様、ウェントワース・スミスの作品という可能性もある。 第二の乙女の悲劇 (The Second Maiden's Tragedy) 1611年の上演台本が単行本化されないまま残された。原稿には17世紀に記された3つの書き込みがあり、それぞれトマス・ゴフ(Thomas Goffe)、シェイクスピア、ジョージ・チャップマン(George Chapman)が著者であると注記している。しかし、文体を分析した結果、トマス・ミドルトンが本当の作者であると推定されている。筆跡鑑定の専門家チャールズ・ハミルトンはこの作品こそ失われた『カルデーニオ』のシェイクスピアによる自筆原稿であると主張しているが、その議論には論理的欠陥があると指摘されている。なお、この作品には正式な題名がつけられていない。宮廷祝典局長(Master of the Revels、もともとは王室内における記念行事などを担当していたが、やがて舞台芸術全般の検閲を執り行なう権限をもつようになった部局の長)がこの作品の検閲を行なったさいに、ボーモント&フレッチャー(Beaumont and Fletcher)の『乙女の悲劇』("The Maid's Tragedy")がちょうど同時期に上演許可願いが出されていたため、「もう一つの乙女の悲劇を扱った作品」と仮に呼んで記した覚書が残されているために『第二の乙女の悲劇』という題として定着したものである。 サー・ジョン・オールドカースル (Sir John Oldcastle) 1600年の初版本では著者の名前が書かれていなかったが、1619年の再版においてシェイクスピアの作品であることが謳われた。国王一座によって上演された記録が残っていることと、『ヘンリー四世』(第1部・第2部)に実在の人物ジョン・オールドカースルをきわめて滑稽なキャラクターとして登場させたため遺族から抗議を受け、フォルスタッフと名前を変えざるをえなかった経緯があることなどから、シェイクスピアが詫び状代わりにジョン・オールドカースルを偉大な人物として描いた本作を執筆したのではないかと推測されていた。実際には、海軍大臣一座を主宰した興行主フィリップ・ヘンズロー(Philip Henslowe)の日記において、アンソニー・マンデイ(Anthony Munday)、マイケル・ドレイトン(Michael Drayton)、リチャード・ハサウェイ(Richard Hathwaye)、ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)らの合作であることが記録されている。 トマス・クロムウェル (Thomas Lord Cromwell) 「W.S.」作として1602年に出版された。ルートヴィヒ・ティークやアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルといったごくわずかな学者を除くと、「この作品の創作にシェイクスピアがいかにわずかであれ関係していたなどと信じる者はいなかった」。ウェントワース・スミスが本当の作者であると推測されている。 二人のいとこの貴公子 (The Two Noble Kinsmen) シェイクスピアとジョン・フレッチャー(国王一座の主任劇作家というシェイクスピアの地位を引き継いだ若い作家)の共作として出版された。主流派の学者はこれを事実と認定しており、単独作ではないにもかかわらず正典へ含めるのにふさわしい作品であるとの見解が広まっている。実際、1986年のオックスフォード版全集などには本作が収録されている。 ヨークシャーの悲劇 (A Yorkshire Tragedy) シェイクスピアの作品として1608年に出版された。これを真実と考える読者は少数にとどまり、文体から鑑みてトマス・ミドルトンが真の作者であるとみなされている。 エドワード三世 (Edward III) 1596年に匿名で出版され、1656年に刊行された書店のカタログではじめてシェイクスピア作と記された。大半はきわめて凡庸ながらも、部分的には作者の天賦の才能を示すようなくだりも見られるため、シェイクスピアの手が加わっていると考える学者も多い。1996年、イェール大学出版局は大手の出版社としてははじめてこの作品をシェイクスピアの名前で刊行した。その後まもなく、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがこの戯曲を上演した。アメリカでは2001年にカーメル・シェイクスピア・フェスティヴァルではじめて本格的に上演された。この作品は駆け出しであったころのシェイクスピアを含む数人の作家集団による共作であるということで学者のあいだでも意見が一致しているが、誰がどの部分を書いたのかについては議論の余地が残されている。オックスフォード版全集第二版(2005年)にもこの作品は収録されているが、作者名は「シェイクスピア他」とされている。 ジョン王の乱世 (The Troublesome Reign of King John) 1591年の初版本では著者不明だが、1611年の第2版では「W. Sh.」、1612年の第3版では「W. Shakespeare.」とシェイクスピアの名前が付されている。20世紀以降これをシェイクスピアの作品と考える学者はきわめて少数になり、クリストファー・マーロウ、ロバート・グリーン、トマス・ロッジ(Thomas Lodge)、ジョージ・ピール(George Peele)らのいずれかが真の作者であろうということで合意している。しかし、シェイクスピアの『ジョン王』が本作を種本として書かれたものであるのか、逆に本作が『ジョン王』を模倣・改作したものであるのかについては見解が分かれている。 ジャジャ馬ナラシ (The Taming of a Shrew) この作品(シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし(The Taming of the Shrew)』と区別するため、日本語ではカタカナで表記するのが通例となっている)は1594年に出版された作者不詳の作品である。シェイクスピアの作品であることを謳っているわけではないが、登場人物やストーリーは『じゃじゃ馬』と酷似している。『じゃじゃ馬』は1594年に上演されているので執筆は1593年ごろと推定されているが、『ジャジャ馬』の推定執筆年代もほぼ同時期であるうえ、『じゃじゃ馬』の初版刊行年は1623年(ファースト・フォリオ)まで下るため、両者の前後関係が明らかとなっていない。一方が他方を下敷きにして書かれた可能性の他、同じ筋立てをもつ第3の作品がかつて存在し、両者ともこれを材源としながら独立して書かれたものであるという可能性なども指摘されている。 「チャールズ2世文庫」の戯曲 チャールズ2世の書庫に、匿名で刊行された3冊の四折判を何者かが1つに束ねて「シェイクスピア 第1巻」という標識をつけて分類しておいたものがある。このため、束ねられた3作が17世紀当時にはシェイクスピアのものとみなされていたという可能性が示唆されているが、これを支持する学者は少ない。『フェア・エム』(Fair Em) 1591年に出版された。本当の作者は不明だが、ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)とする説がある。 ムシドーラス (Mucedorus) 非常に人気のある戯曲であったため、本文に明らかに不自然な点があるにもかかわらず、1598年の初版以降多くの版を重ねた。国王一座の作品であるため、シェイクスピアが執筆ないし改訂に寄与した可能性があるが、本当の作者が誰であるかは謎に包まれている(ロバート・グリーン(Robert Greene)説が提案されてはいる)。 エドモントンの陽気な悪魔 (The Merry Devil of Edmonton) 1608年に初版刊行。この作品も国王一座の作品であり、シェイクスピアが寄与した可能性があるが、その文体はシェイクスピアとは似ても似つかないものである。
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