17世紀当時の外典とは? わかりやすく解説

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17世紀当時の外典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/24 06:06 UTC 版)

シェイクスピア外典」の記事における「17世紀当時の外典」の解説

扉ページシェイクスピアの名前(もしくは「Will.S」などのイニシャル)を付して17世紀に四折判で刊行されいながらも、ファースト・フォリオには未収録戯曲いくつかある。シェイクスピア愛好家多くは、これらの戯曲のうちのいくつかシェイクスピアによって(少なくとも部分的に彼によって)書かれたものだと信じており、実際ペリクリーズ』などのように専門研究者によって真作認定されたものもある。しかし『トマス・クロムウェル』といったそれ以外の作品あまりにも出来悪く、とうていシェイクスピア作品であるとは考えられないヘミングスコンデルがこれらの作品ファースト・フォリオから除外した理由はいくつ考えられる扉ページ書かれている著者名単なる虚偽であり、イカサマ出版業者シェイクスピア名声利用したにすぎない。 これらの戯曲シェイクスピアと他の劇作家との合作であり、シェイクスピア単独作ではない(ただし、現代文体分析からやはり合作可能性が高いことが証明されている『ヘンリー八世』、『ヘンリー六世 第1部』、『アテネのタイモン』などは除外されていないことには注意が必要である)。 シェイクスピアよるものであることは確かだが、シェイクスピア一から執筆したではなく他人作品編纂改作しただけなのかもしれない。あるいは、書いたのは他の人間であるもののシェイクスピアによるプロット原案にしていたため名前が記されたのかもしれない。 それらの作品国王一座以外の劇団のために書かれシェイクスピア初期作品であり、したがってファースト・フォリオ編纂していたヘミングスコンデル著作権もたないため収録できなかったのかもしれない。 これらはいずれ可能性のある推測であるにすぎず、どれか一つ正し答えというわけではない。個々作品についてそれぞれの事情鑑みる必要があるマーリンの誕生 (The Birth of Merlin) シェイクスピアとウィリアム・ロウリー(William Rowley)の合作銘打って1662年出版された。しかし、この戯曲シェイクスピアの死後6年経た1622年書かれたものであるという明白な証拠があるため、これは明らかに虚偽もしくは誤記である。そもそもシェイクスピアとロウリーはライバル関係にあった二つ劇団主力劇作家だったので、この二人合作行なったということ自体がありそうにもないことである。作品出来自体は「面白く華やかで、テンポ速い」と評されているが、それでも「エイヴォン白鳥の天才痕跡はまった認められない」というヘンリー・タイレル(Henry Tyrrel)による批評文学者たちのあいだでの総意である。またC・F・タッカー・ブルック(C. F. Tucker Brooke)は、この作品シェイクスピアのものであるという説が現れたのは、むしろ本当作者ロウリーが意識的にシェイクスピア模倣をしていたためではないか補足している。 ロークリンの悲劇 (Locrine) 「W.S.監修による新作」として1595年発表された。この戯曲格式ばった形式的韻文決しシェイクスピア的ではないが、シェイクスピア古くからある作品改訂したのかもしれない考えることは不可能ではない。同じ「W.S.」のイニシャルをもつ無名劇作家ウェントワース・スミス(Wentworth Smith)が本当作者であった可能性もある。 ロンドン道楽者 (The London Prodigal) シェイクスピアの名前で1605年出版された。国王一座作品なのでシェイクスピアがこの作品の成立に少しばかり関わった可能性はあるが、タッカー・ブルックもいうように「シェイクスピア普遍性精神的な洞察著しく欠如している」。フレデリック・ガード・フレイ(Frederick Gard Fleay)は、シェイクスピア大雑把に書き残した粗筋をもとに他の作家執筆したのであるかもしれない仮定している。 ペリクリーズ (Pericles) 1609年シェイクスピアの名前で刊行前半後半文体異なることなどから、最初の2幕は別の劇作家によって書かれ合作であると推測される。ニコラウス・デリウス(Nicolaus Delius)がこの合作者はジョージ・ウィルキンズ(George Wilkins)であろうとの学説1868年提示したほか、ジョン・デイ(John Day)を執筆協力者とする説もある。ゲイリー・テイラー(Gary Taylor)がいうように、ジャコビアン時代に「シェイクスピア詩的文体は(信頼値しないテキストにおいてさえ)同時代の他の作家比較して著しく際立ったものとなった」ため、後半5分の3ほどはシェイクスピア文体他ならないということは学者たちのあいだで意見一致している。 ピューリタン (The Puritan) 「W.S.」作として1607年出版された。この戯曲トマス・ミドルトンよるものというのが通説となっているが、『ロークリンの悲劇』と同様、ウェントワース・スミスの作品という可能性もある。 第二の乙女の悲劇 (The Second Maiden's Tragedy) 1611年の上演台本が単行本化されないまま残された。原稿には17世紀記され3つの書き込みがあり、それぞれトマス・ゴフ(Thomas Goffe)、シェイクスピアジョージ・チャップマン(George Chapman)が著者であると注記している。しかし、文体分析した結果トマス・ミドルトン本当作者であると推定されている。筆跡鑑定専門家チャールズ・ハミルトンはこの作品こそ失われたカルデーニオ』のシェイクスピアによる自筆原稿であると主張しているが、その議論には論理的欠陥があると指摘されている。なお、この作品には正式な題名つけられていない宮廷祝典局長Master of the Revels、もともとは王室内における記念行事などを担当していたが、やがて舞台芸術全般検閲執り行なう権限をもつようになった部局の長)がこの作品検閲行なったさいに、ボーモント&フレッチャー(Beaumont and Fletcher)の『乙女悲劇』("The Maid's Tragedy")がちょう同時期に上演許可願い出されていたため、「もう一つ乙女悲劇扱った作品」と仮に呼んで記した覚書残されているために『第二の乙女の悲劇』という題として定着したのであるサー・ジョン・オールドカースル (Sir John Oldcastle) 1600年初版本では著者の名前が書かれていなかったが、1619年再版においてシェイクスピア作品であることが謳われた国王一座によって上演され記録残っていることと、『ヘンリー四世』(第1部・第2部)に実在人物ジョン・オールドカースルきわめて滑稽なキャラクターとして登場させたため遺族から抗議を受け、フォルスタッフと名前を変えざるをえなかった経緯があることなどから、シェイクスピア詫び状代わりにジョン・オールドカースル偉大な人物として描いた本作執筆したではないか推測されていた。実際には、海軍大臣一座主宰し興行主フィリップ・ヘンズロー(Philip Henslowe)の日記において、アンソニー・マンデイ(Anthony Munday)、マイケル・ドレイトン(Michael Drayton)、リチャード・ハサウェイ(Richard Hathwaye)、ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)らの合作であることが記録されている。 トマス・クロムウェル (Thomas Lord Cromwell) 「W.S.」作として1602年出版された。ルートヴィヒ・ティークアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルといったごくわずか学者を除くと、「この作品創作シェイクスピアがいかにわずかであれ関係していたなどと信じる者はいなかった」。ウェントワース・スミスが本当作者であると推測されている。 二人のいとこの貴公子 (The Two Noble Kinsmen) シェイクスピアジョン・フレッチャー国王一座主任劇作家というシェイクスピア地位引き継いだ若い作家)の共作として出版された。主流派学者はこれを事実認定しており、単独作ではないにもかかわらず正典含めるのにふさわしい作品であるとの見解広まっている。実際1986年オックスフォード全集などには本作収録されている。 ヨークシャーの悲劇 (A Yorkshire Tragedy) シェイクスピア作品として1608年出版された。これを真実考え読者少数とどまり文体から鑑みてトマス・ミドルトン真の作者であるとみなされている。 エドワード三世 (Edward III) 1596年匿名出版され1656年刊行され書店カタログではじめシェイクスピア作と記された。大半きわめて凡庸ながらも、部分的に作者天賦の才能を示すようなくだりも見られるため、シェイクスピアの手加わっていると考え学者も多い。1996年イェール大学出版局大手出版社としてははじめてこの作品シェイクスピアの名前で刊行したその後まもなく、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがこの戯曲上演したアメリカでは2001年にカーメル・シェイクスピア・フェスティヴァルではじめ本格的に上演された。この作品駆け出しであったころのシェイクスピアを含む数人作家集団による共作であるということ学者のあいだでも意見一致しているが、誰がどの部分書いたのかについては議論余地残されている。オックスフォード全集第二版2005年)にもこの作品収録されているが、作者名は「シェイクスピア他」とされている。 ジョン王の乱世 (The Troublesome Reign of King John) 1591年初版本では著者不明だが、1611年第2版では「W. Sh.」、1612年第3版では「W. Shakespeare.」とシェイクスピアの名前が付されている。20世紀以降これをシェイクスピア作品考え学者きわめて少数になり、クリストファー・マーロウロバート・グリーン、トマス・ロッジ(Thomas Lodge)、ジョージ・ピール(George Peele)らのいずれか真の作者であろうということ合意している。しかし、シェイクスピアの『ジョン王』が本作種本として書かれたものであるのか、逆に本作が『ジョン王』を模倣改作したのであるのかについては見解分かれている。 ジャジャ馬ナラシ (The Taming of a Shrew) この作品シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならしThe Taming of the Shrew)』と区別するため、日本語ではカタカナ表記するのが通例となっている)は1594年出版され作者不詳作品である。シェイクスピア作品であることを謳っているわけではないが、登場人物ストーリーは『じゃじゃ馬』と酷似している。『じゃじゃ馬』は1594年上演されているので執筆1593年ごろと推定されているが、『ジャジャ馬』の推定執筆年代もほぼ同時期であるうえ、『じゃじゃ馬』の初版刊行年は1623年ファースト・フォリオ)まで下るため、両者前後関係が明らかとなっていない。一方他方下敷きにして書かれ可能性の他、同じ筋立てをもつ第3作品がかつて存在し両者ともこれを材源しながら独立して書かれたものであるという可能性なども指摘されている。 「チャールズ2世文庫」の戯曲 チャールズ2世書庫に、匿名刊行された3冊の四折判を何者かが1つ束ねてシェイクスピア 第1巻」という標識をつけて分類していたものがある。このため束ねられた3作が17世紀当時にはシェイクスピアのものとみなされていたという可能性示唆されているが、これを支持する学者少ない。『フェア・エム』(Fair Em) 1591年出版された。本当作者不明だが、ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)とする説がある。 ムシドーラス (Mucedorus) 非常に人気のある戯曲であったため、本文明らかに不自然な点があるにもかかわらず1598年初版以降多くの版を重ねた国王一座作品であるため、シェイクスピア執筆ないし改訂寄与した可能性があるが、本当作者が誰であるかは謎に包まれている(ロバート・グリーン(Robert Greene)説が提案されてはいる)。 エドモントンの陽気な悪魔 (The Merry Devil of Edmonton) 1608年初版刊行。この作品国王一座作品であり、シェイクスピア寄与した可能性があるが、その文体シェイクスピアとは似ても似つかないのである

※この「17世紀当時の外典」の解説は、「シェイクスピア外典」の解説の一部です。
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