17世紀以降の外典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/24 06:06 UTC 版)
「シェイクスピア外典」の記事における「17世紀以降の外典」の解説
同時代に匿名で発表された戯曲で、後年になってからシェイクスピアのものではないかという学説が唱えられることとなった作品もいくつか存在する。これらの説はいずれも根拠に乏しく、眉唾物であることには注意が必要である。シェイクスピアの失われた傑作を発見するということはシェイクスピア愛好家にとっては見果てぬ夢であるために提唱された説だが、こうした新説の多くが「この作品には“シェイクスピアの文体”が現れている」と主張しており、シェイクスピアの文体とはいかなるものであるかという議論の余地のある見解をもっぱらその根拠としているためである。それにもかかわらず、これらの異説の中にはそれなりの説得力があったため主流派の研究者にも(控え目ながら)受け入れられたものもある。 フェヴァーシャムのアーデン (Arden of Faversham) この戯曲は1592年に匿名で出版され、1770年に再刊されたさいにシェイクスピアの名が冠された。しかし、その文体や主題はシェイクスピアの正典とはかけはなれているため、この見解を支持する学者が極めて少ない。一般にはトマス・キッド(Thomas Kyd)が本当の作者と解されているが、それ以外の人物が提案されることもある。 エドマンド剛勇王 (Edmund Ironside) この作品も作者不詳の戯曲である。エリック・サムズ(Eric Sams)やE・B・エヴァリット(E. B. Everitt)のようにこれをシェイクスピアの作品とする者もいるが、やはり支持するシェイクスピア研究者は少ない。 サー・トマス・モア (Sir Thomas More) 1590年代に書かれたのち10年ほどたってから加筆修正がなされたと推測されているが、当時は単行本化されず手稿のまま残された戯曲である(正式に刊行されたのは1844年)。この作品もまたシェイクスピアのオリジナル作品ではなく、おそらくアンソニー・マンデイの作品であろうという考えで大方の研究者は合意しているが、極めて注目に値する外典であり、オックスフォード版全集(2005年)もマンデイ作としながら収録している。というのも、この作品は数次にわたる加筆がなされているが、加筆者の一人がシェイクスピアである可能性が指摘されており、これが証明されると、大英図書館所蔵のこの手稿は地球上に存在しないものと考えられている「シェイクスピアの自筆原稿」を含むことになるためである。 手稿には検閲官を除いて6人の筆跡があり、それぞれS、A、B、C、D、Eの名がつけられ、以下の作家によるものと推定されている。S:アンソニー・マンデイ(Anthony Munday)。オリジナルの作者。 A:ヘンリー・チェトル(Henry Chettle)。最初の改稿を加えた。 B:トマス・ヘイウッド(Thomas Heywood)。 C:筆耕の専門家(正体不明)。 D:シェイクスピア。 E:トマス・デッカー(Thomas Dekker)。 筆跡Dは3ページ分にわたっており、シェイクスピア自筆の文字として唯一現存する法律文書への署名と比較して見られる類似から、この部分をシェイクスピアによって書かれたものとみなす学者は少なくない。しかし、この作品の著作権がシェイクスピアの劇団に帰属するものでなかった事実などから反論する学者も多い。
※この「17世紀以降の外典」の解説は、「シェイクスピア外典」の解説の一部です。
「17世紀以降の外典」を含む「シェイクスピア外典」の記事については、「シェイクスピア外典」の概要を参照ください。
- 17世紀以降の外典のページへのリンク