発見するということ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 15:35 UTC 版)
人間は発見するときに、「なぜ?」や「どうして?」などの一種のわくわく感が生まれるということが分かっている。[要出典]トーマス・エジソンはそのわくわく感を子供のうちに養っていたので天才になれたのだという説もある[要出典]。 何をもって発見とするかについては、その対象によってやや異なる。事物であれば、問題は比較的簡単で、それまで誰も見たことのなかったものを見つけることが発見である。たとえば冥王星の発見などはこれに当たる。それに対して、コロンブスによるアメリカ大陸発見となると、これはヨーロッパ文明にとってのそれを発見と称している。すでに先住民がおり、あるいは他系統の文明では知られていた場所であっても、ヨーロッパ文明がそれを見つけた時点をもって発見と称される。遺跡などもこの例が多く、これらは西欧文明の主観的な判断といってよい。ただし、あまりに古いものや、その地域でも忘れ去られていた遺跡に関してはこの限りではない。 生物における新種の発見の場合、また様相が異なる。ここでは発見は必ずしも偉業とは見なされない。たとえば江戸時代であれば、西洋諸国にとっては日本は未知の地域であり、そこに訪れて植物でも採集する機会が持てれば、その人物は必ず新種を多数発見することだろう。しかし、それが新種であることがわかったとしても、それだけでは新種とは認められない。それが既存のどの仲間に近く、あるいはどれだけ異なっているかがわからなければならない。これは分類学者の仕事であり、そのような研究に基づいた新種記載の論文によって新種が認められる。発見者はこれにかかわるとは限らず、その名が残らないことも多い。もっとも、発見者に献名される例も多いから、名が残る事例も多い。
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