発見とその後
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1995年、ベルリン自由大学生物学教授であり中国美術収集家のハンス・ヨアヒム・キュステルと妻インゲが親戚宅の屋根裏で発見し、自身が会員として所属するベルリン東洋美術館に他の収集品と共に寄託した。これ以前の経緯は全く不明である。 以降中国美術として保管されていたが、1999年キュステルが死去し、遺品整理が行われた際、丁度日本ギャラリー新装のため雇われていた日本美術学芸員カアン・トリンが日本の作品と確認した。 ビルバルト・ファイト館長がケルン大学日本学教授フランジスカ・エームケを介し、講演でケルンにいた学習院大学教授小林忠に話を持ちかけた。小林忠はチューリッヒリートベルク美術館・ベルリン自由大学での講演を済ませた後、同美術館に立ち寄り、調査を行った。 絵は日本ギャラリー新装の目玉として同美術館で初公開された後、2003年1月5日から2月23日まで江戸東京博物館の「江戸開府400年博物館10周年記念 - 大江戸八百八町展」、2006年1月7日から2月12日まで三井記念美術館の「開館記念特別展II - 日本橋絵巻展」に展示され、二度の里帰りを果たした。 その後、名橋「日本橋」保存会及び日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会によって江戸東京博物館監修の下、1.4倍の複製が制作された。複製は詳細な解説とともに東京メトロ三越前駅地下コンコースに設置され、2009年11月30日除幕された。 絵画は現在も旧ベルリン東洋美術館、現ベルリン国立アジア美術館がこれを所蔵している。
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発見とその後
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「池谷・関彗星 (C/1965 S1)」の記事における「発見とその後」の解説
発見当時、台風24号が土佐沖を通過し、9月17日21時には955ミリバールの勢力で三重県に上陸して北東に進んでいた。池谷薫は浜松市で台風の目の通過中に自作の口径 15 cm 倍率 22 倍の反射望遠鏡で、関勉は高知市で台風通過後の晴れ間を利用して自作の口径 8.8 cm 倍率 19 倍の屈折望遠鏡を用いて彗星を捜索し、うみへび座にあった池谷・関彗星をほぼ15分ほどの時間差で独立に発見した。そのときの光度は7-8等級であった。両者からの発見電報を受けた東京天文台(現国立天文台)では、ベテランコメットハンターの同時発見ということで、国内での確認作業なしでアメリカのスミソニアン天体物理観測所にある天文電報中央局に報告した。この彗星の確認観測はオーストラリアのウーメラ天文台で行われ、正式に「池谷・関彗星 (1965f)」の名前が確定した。この発見は、池谷薫、関勉共に3個目の独立発見となった。この小さな彗星が、この後に世紀の大彗星へと成長したことから、2人は世界的に有名になることとなった。 彗星の軌道をある程度正しく計算するには、数日から1週間程度の複数の観測が必要であるが、フランスのロジェ・リゴレー (Roger Rigollet) は、この彗星の発見位置と運動方向から、池谷・関彗星が19世紀にいくつもの大彗星を出現させたクロイツ群に属することに即座に気付いた。その後の観測から軌道を計算したところ、この彗星は確かにクロイツ群に属するもので、10月21日に太陽表面からわずか約45万km(太陽の直径の約1/3)のところを通過し、極めて明るくなると予報された。彗星の明るさは予想通りにならないことが多いが、池谷・関彗星は予想通りの光度変化をし、太陽に近づいて明るくなっていった。日本では、10月21日正午ごろ(日本時間)の近日点通過時には、彗星が推定-17等級に達し、約60分間の間満月よりも明るくなったのが観測された。昼間の太陽のすぐ近くでもはっきり見え、尾が太陽の周りに巻きついているように見えたという報告もあった。また、長野県と岐阜県にまたがる、東京天文台(当時)の乗鞍コロナ観測所では、コロナグラフというコロナ撮影専用の特殊な装置を使って写真撮影に成功した(外部リンク参照)。この彗星は過去数千年で最も明るくなった部類に入るということが明らかになっており、「1965年の大彗星」とも呼ばれる。 近日点通過の直前に、核が3つ程度に分裂したのが観測され、そのうち2個(A核、B核)については近日点通過後にも長期にわたって詳しい観測がある。これらの核はあまり離れることなくほとんど同じ軌道を進んだため、肉眼や小望遠鏡では1つの彗星として観測された。彗星は10月27日頃になって、明け方の薄明の空に2-3等級のコマと明るく長い尾を持って再び現れた。11月初旬には、コマが4等級と暗くなったが、薄明前の暗夜に細長い尾をもった姿を好条件で観測できるようになった。このときの尾の長さは、眼視で20-30度、写真では40度ほどと報告されている。当時は高度経済成長以前で、光害が進んでいなかったため夜空は暗く、また天候にも恵まれたため、日本など北半球の各地で雄大な尾を連日見ることができた。日本人が発見したということもあり、この彗星をきっかけにして天文を趣味にしたり彗星捜索を始めた日本人も多い。11月に入っても彗星は相変わらず長い尾を見せていたが、急激に光度を落とし11月10日すぎ肉眼では見えなくなった。その後も、彗星は太陽系の外部へ遠ざかりながら急速に暗くなっていき、1966年の始めには大望遠鏡を使っても観測できなくなった。3等級以上の明るさを保っていた期間は2週間程度だったが、最も美しい姿を見ることができたのは10月末と11月初旬の数日間であった。
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発見とその後
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1975年に慶州市の雁鴨池(アナプチ、안압지)から出土した。ちなみにその近くからは六面体のサイコロも出土している。 国立文化財研究所はまず、サイコロに紙を当てて実測し、展開図を作っており、これをもとに複製品を製作した。この酒令具の出土品そのものは、水分を取り除く保存処理のため、温度が自動調節される特殊オーブンに一晩入れておいたところ、温度が高すぎて燃えてしまったため現存していない。そのため現在では複製品のみが現存している。
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発見とその後
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グラウベールマンは1952年4月26日に泥炭採掘業者によって発見された。作業員の一人が泥炭とは違うものをスペード(土堀具)で突き刺したことに気づき、掘り進めたところ頭部が泥炭から出てきた。通りがかりの地元の郵便局員がすぐに医者とアマチュア考古学者を呼んだ。グラウベールマン発見の知らせはすぐに広まり、翌日以降多数の人が見学に押し寄せた。翌朝オーフスの考古学博物館からペーター・グロブ教授(en)が派遣され、まだ大部分が埋まっていたグラウベールマンを掘り出し、博物館に移動する作業が始められた。 従来の湿地遺体は発掘ののち埋め戻されることが多かったが、グロブのチームはグラウベールマンを調査するだけではなく将来公開するために保存することを計画した。ただ展示することを優先したために、保存処理はすぐには実行されなかった。結果グラウベールマンは常に湿気を含んだ状態になり、カビが繁殖し始めた。 検死を含む調査の終了後、なめし皮製法で保存処置が行われ内部にはオークの樹皮が詰められた。1955年からオーフス近郊のモースゴー先史博物館で展示されている。2001-2002年に最新の科学的手法による調査(放射線医学、CTスキャン、3D可視化、光造形法、胃の内容物の分析)が行われた時を除いて現在の博物館から外に出ていない。
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