弥生土器の発見とその後の調査での場所の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 00:55 UTC 版)
「弥生土器」の記事における「弥生土器の発見とその後の調査での場所の確定」の解説
1884年(明治17年)3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で貝や縄文土器とともに口縁を除いてほぼ完形の壺が出土した。発見者は、有坂鉊蔵・坪井正五郎・白井光太郎の三人で、みな当時20才前後の学生だった。発見地については、1889年(明治22年)坪井正五郎が『東洋学芸誌』に報告し、1923年(大正12年)に発見者の有坂鉊蔵が記録を残している。 向ヶ丘貝塚の正確な位置については長い間不明であったが、東京大学文学部考古学研究室が、本郷キャンパスの一角、工学部9号館の近くで遺構の一部を確認し、その周辺であることがほぼ確定的となった。1974年、東京大学構内で弥生土器が発見され、翌年発掘調査が行われた。その区域から環濠と考えられるV字形の溝が検出された。この調査地点が、弥生の壺の発見者である有坂鉊蔵の向ヶ丘貝塚の記述と合致し、弥生の壺発見場所はV字形環濠のうちのどこかであった可能性が高い。同遺跡は1976年弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定された。
※この「弥生土器の発見とその後の調査での場所の確定」の解説は、「弥生土器」の解説の一部です。
「弥生土器の発見とその後の調査での場所の確定」を含む「弥生土器」の記事については、「弥生土器」の概要を参照ください。
- 弥生土器の発見とその後の調査での場所の確定のページへのリンク