「寛政原本」発見とその後
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「古田武彦」の記事における「「寛政原本」発見とその後」の解説
2007年(平成19年)、古田は『東日流外三郡誌』の「寛政原本」を発見したと主張し、翌年にはその写真版を出版した。この書籍には、笠谷和比古(国際日本文化研究センター研究部教授)による鑑定文が収録されている。一方、和田喜八郎の筆跡と一致しているとする主張や、表紙は和田喜八郎の筆跡で中身は僧侶が漢詩をつくるための覚書(おそらくは寺院からの流出物)と思われるものであるとする主張がある。 2009年(平成21年)、国記と天皇記からの引用を和田家文書の中から発見したと主張した。それと同時に『なかった』を休刊する。 2010年(平成22年)から、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』以下、古代史関係の著作をミネルヴァ書房より「古田武彦・古代史コレクション」として復刊。また、2011年(平成23年)9月10日にミネルヴァ日本評伝選として『俾弥呼(ひみか) 鬼道に事え、見る有る者少なし』を発刊した。 2015年(平成27年)10月14日、京都市西京区の病院で死去。
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