「対」と「対代」の違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
太田静六の「衰退論」に対して、川本重雄は「対」とは元々は大きさと無関係な、寝殿に対する脇殿のことであったろうとする。なので「対」や「対代」と区別する必要はなかった。 そこに、もはや脇殿とは言えないような大型の「対」が登場する。『大鏡』には藤原兼家が内裏の清涼殿をまねて西対を作りひんしゅくを買ったとある。清涼殿は東に広庇(孫庇)を持つ梁間五間である。それ以前には孫庇まである対・脇殿は内裏以外には無かったことになる。 しかしその子の藤原道長の頃には既に普通になっている。更に、12世紀の初めの藤原忠実の語談をまとめた『富家語談』には「仰云、対代ト云ハ無片庇対ヲ云也」と「片庇」つまり「孫庇」の無い「対」を「対代」と言うと記している(川本重雄の儀式空間の変遷論参照)。 以上のことから川本重雄は次のようにまとめる。 正規の対: 梁間二間の母屋に四面庇、南広庇、そして寝殿の反対側に孫庇を備えた対。 対代 : 「正規の対」で述べた対の規格に合わないもの。 対代廊 : 「対代」のうち母屋の梁間が一間のもの。 例えば画像510の堀河殿の「西対」は母屋の梁間が二間で南と西に孫庇を持つ「正規の対」であるに対し、東対代廊は南広庇を持ち、母屋・庇の構造ではあるものの、その母屋の梁間は一間である。ただしこれはかなり立派な対代廊で、全体の梁行が二間というケースが多い。現に太田静六の堀河殿復元図もその想定である。 なお、「対代」の文献上の初出は『権記』長保5年(1003)2月20日条の枇杷殿の対代。「対代廊」は『柳原家記録』寛治5年(1092)正月1日条の堀河殿東対代廊が初出である。「対」(たい)という呼び方と「対屋」(たいのや)という呼び方があるが、「対」は「対屋」の省略ではない。藤田勝也によると「対」という呼び方が古く「対屋」という呼び方は平安時代にはごく僅かで、鎌倉時代以降に主流になるという。
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