「寛容」と「言論の自由」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:41 UTC 版)
「寛容のパラドックス」の記事における「「寛容」と「言論の自由」」の解説
寛容のパラドックスは、もし言論の自由のどこかに境界線が引かれるとすればどこに引かれるべきか、と言う議論において重要である。ポパーは、「言論の自由をそれを自らが立脚しているまさにその原則を破壊するために用いる者たちに認めるのは矛盾である」と主張した。マイケル・ローゼンフェルドは、「思い通りになるなら反対派の言論を容赦なく抑圧するであろう過激派に、言論の自由を広げることは矛盾している」と述べ、「ヘイトスピーチに対する寛容」と言う問題に、西欧の民主主義社会と合衆国とでは異なるアプローチを取っていると指摘した。 ある者は、「不寛容な発言は、単なる排他的態度のシグナルに過ぎないのだから、排他的態度に基づいた暴力や、直接的な抑圧的な行動などとは違った断罪の基準に従わなければならない」と主張する。 「自らの独断に基づいて不寛容な発言を暴力的に押さえつける行動は、どのような場所でも暴力を正当化する。しかも、個々人のそれぞれの独断に基づいて、なのだぞ」。 寛容を暴力的に破壊する不寛容な言論を押さえつけるための、寛容な人々の側による暴力的な不寛容、に対する批判は、ユルゲン・ハーバーマスとカール=オットー・アーペル によって創始された討議倫理学の特徴でもある。「合意に達するという手段は、力という道具によって繰り返し押しのけられる(The means of reaching agreement are repeatedly thrust aside by the instruments of force.)」(Ibid. Habermas) 。 国際基督教大学教授で神学者の森本あんりは、「寛容とは『本来容認できないことを容認すること』であり、はじめから簡単に容認できることだけを容認するだけなら、それを寛容とは呼ばず、逆に、容認できないことは容認しない、というのであれば、それも寛容とは呼べないだろう」と述べる。一方で、「『どのような発言でも自由になされるべきだ』というわけでもなく、ヘイトスピーチや暴力を煽る内容であれば、排除されるべき」とも述べている。 評論家で翻訳家の山形浩生は、カタロニア独立運動の各種発言が「スペインに対するヘイトスピーチである」として多数の取り締まりが行われている例を示し、ヘイトスピーチの認定は常に恣意的であり、その言説に対する好き嫌いが根底にあることを指摘する。また、「進歩派(進歩主義者)がなんでもイスラムフォビアだ、LGBT差別だ、排外主義だ、レイシストだ、偏狭なミーイズムの田舎者だ、とレッテル張りをしたことが、まさに社会の分断を煽る不寛容でしかなく、言われたほうが態度を硬化させて、トランプが出てきてしまった」と述べている。
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