「富有」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 09:17 UTC 版)
当時の居倉村には居倉御所(御所柿)と呼ばれる甘柿が多数植えられていたが、特に福嶌家に隣接する小倉長蔵が所有する柿の木は形状も風味も優れたものだった。文政3年(1820年)頃に長蔵の祖父ふさの(通称ノブ)が植えたものとされている。1884年(明治17年)、才治は長蔵から柿の木の枝を譲り受け、医学の知識を応用して接ぎ木を試みた。1887年(明治20年)に福嶌家の家督を継ぐと、個体選抜と系統選抜を繰り返し、1892年(明治25年)秋には岐阜市で開催された品評会で一等賞を受賞した。1895年(明治28年)、30歳となっていた才治は富田みさをと結婚した。 1898年(明治31年)に岐阜県農会が主催した展覧会に出品した際には、中国古典『礼記』中庸編の一節「富有四海之内」から取った「富有」という名称を付け、やはり一等賞を受賞した。1899年(明治32年)に岐阜県農会が主催した第1回蔬菜果実品評会でも一等賞を受賞し、岐阜県知事の野村政明に認められたことで、「富有」は岐阜県における柿の奨励品種となった。1903年(明治35年)の第2回蔬菜果実品評会の際には、柿栽培法において才治の恩師でもある恩田鉄弥が審査委員長を務めた。恩田は各部門で一等賞を受賞した品物を宮内大臣と農商務大臣に送ると、特に「富有」が称賛されたため、1904年(明治36年)には明治天皇にも献上された。 才治は農地を所有していなかったため柿農家ではなかったが、「富有」の宣伝や普及に努めた。明治末期には在来種から「富有」に切り替える農家が増え、特に本巣郡郡府村一帯が「富有」の産地となった。明治末期から大正期にかけて、遠くは東北地方・九州・朝鮮からも穂木の注文があった。1919年(大正8年)、才治は55歳の時に死去した。
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