「寛永三馬術」曲垣平九郎の故事とは? わかりやすく解説

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「寛永三馬術」曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 02:37 UTC 版)

愛宕神社 (東京都港区)」の記事における「「寛永三馬術」曲垣平九郎まがき・へいくろう)の故事」の解説

愛宕山 (東京都港区)#出世の石段」も参照 寛永11年江戸幕府第三征夷大将軍徳川家光芝増上寺参詣した帰り道愛宕神社の下を通った愛宕山には源平紅白)の満開咲いており、それを見た家光が「馬に乗ってあの取って参れ!」と命じた。しかし、愛宕山石段はとても急勾配であり、馬で石段上って取ってくることなど、とてもできそうになかった。そのため、近習家臣たちは誰一人動こうとしなかった。 そんな中四国丸亀藩士の曲垣曲木平九郎が馬に乗って石段上り降りし、見事、山上を手折って家光献上した家光は、泰平世にあって馬術稽古怠らない平九郎姿勢称賛し日本一馬術名人」と讃えた。そして、平九郎の名は一日にして全国とどろいた伝えられている。 この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)は「出世の石段」と呼ばれている。現在の男坂86段あり約40度と急で知られ、脇には勾配緩やかな女坂もある。曲垣曲木平九郎講談寛永三馬術』で後世まで有名となったが、生没年など生涯未詳で、同じ四国高松藩士とする文献もある。

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