「寛永三馬術」曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事
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「愛宕山 (東京都港区)#出世の石段」も参照 寛永11年、江戸幕府第三代征夷大将軍徳川家光が芝増上寺に参詣した帰り道、愛宕神社の下を通った。愛宕山には源平(紅白)の梅が満開に咲いており、それを見た家光が「馬に乗ってあの梅を取って参れ!」と命じた。しかし、愛宕山の石段はとても急勾配であり、馬で石段を上って梅を取ってくることなど、とてもできそうになかった。そのため、近習の家臣たちは誰一人動こうとしなかった。 そんな中、四国丸亀藩士の曲垣(曲木)平九郎が馬に乗って石段を上り降りし、見事、山上の梅を手折って家光に献上した。家光は、泰平の世にあって馬術の稽古を怠らない平九郎の姿勢を称賛し「日本一の馬術の名人」と讃えた。そして、平九郎の名は一日にして全国にとどろいたと伝えられている。 この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)は「出世の石段」と呼ばれている。現在の男坂は86段あり約40度と急で知られ、脇には勾配が緩やかな女坂もある。曲垣(曲木)平九郎は講談『寛永三馬術』で後世まで有名となったが、生没年など生涯は未詳で、同じ四国の高松藩士とする文献もある。
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