「富士宮下文書」におけるウガヤ朝
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「ウガヤフキアエズ王朝」の記事における「「富士宮下文書」におけるウガヤ朝」の解説
「富士宮下文書」によれば、ウガヤ朝は51代続いたとするが、五瀬命は皇太子のまま薨去し即位はしてはいないことになっており代数に数えられていない。また歴代すべて男帝であって女帝は存在しない。また歴代すべて単純な父子相続になっているが「富士宮下文書」では皇統譜にかぎらずすべての系図にこの傾向があり、機械的につなげたにすぎないと思われる。ウガヤ朝の天皇はすべて「神皇」、皇后は「神后」という用語を使っている。 代数に大きな食い違いがあるように見えるが、『ウエツフミ』「竹内文献」の第2代をとばして、第3代が「富士宮下文書」の第2代に当たるとして順次ずらしていくと、「富士宮下文書」の第50代(=『ウエツフミ』「竹内文献」の第51代)までは名前や山陵地や治世中の事件などがよく一致する。なので『ウエツフミ』「竹内文献」の第52代〜第70代が「富士宮下文書」においては欠落しているらしい。そのあと「富士宮下文書」の第51代が『ウエツフミ』「竹内文献」の第71代にあたる。ただし、『ウエツフミ』「竹内文献」における女帝はすべて一般の皇后にあたる「神后」に、「ヨサキヲ」は一般の天皇に該当する「神皇」に名称(表記?)が変更されている。 歴史内容は、ごくまれに外寇(外国軍の侵入)と鎮圧などがあるぐらいで『ウエツフミ』ほど記事は豊富といえない。富士山のふもとにあったという阿祖山太神宮の話は、「竹内文献」には一切でてこないが、『ウエツフミ』によると、この地には香香背星之男の長(かかしつつのをのかみ)と呼ばれる勢力があり、ニニギの命の天孫降臨に際して、説得されてウガヤ王朝に合流したとされている。
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