17世紀までの伝統的受難曲
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「受難曲」の記事における「17世紀までの伝統的受難曲」の解説
1545年-1563年に開催されたトレント公会議の結果、カトリック圏内では技巧的な教会音楽の演奏が抑制され、受難曲の新たな創作が見られなくなるのに対して、礼拝における音楽の演奏に寛容であったルター派圏内では、16世紀-17世紀にかけて集中的に受難曲が作曲された。ルター派における伝統的受難曲の規範となった作品は、ヨハン・ヴァルター(1496年-1570年)が作曲した『マタイ受難曲』(1550年頃)である。ヴァルターは、ルターが翻訳したドイツ語聖書にあわせて朗唱定式を改変し、合唱によるトゥルバの部分と組み合わせた。ルター派における応唱受難曲は、その後、アントニオ・スカンデッロ(1517年-1580年)の『ヨハネ受難曲』を通して、イエスの言葉も多声で作曲されるようになり、福音史家による語りを除き、様々な多声化が試みられる。 一方、イタリアとは異なり、通作受難曲が数多く作曲されたことも、ルター派圏内における受難曲の特徴である。ヴィッテンベルクの出版業者ゲオルク・ラウが1538年に誤ってヤーコプ・オブレヒトの作品として出版したロングヴァルの受難曲は、ルター派圏内で広く流布し、ルードヴィヒ・ダーザー(1525年頃-1589年)、レオンハルト・レヒナー(1553年頃-1606年)、ヨハン・クリストフ・デマンツィウス(1567年-1643年)の『ヨハネ受難曲』等に受け継がれる。それらのなかには、ルターの友人であるヨハン・ブーゲンハーゲンが1526年に作詞した『4人の福音史家による我らの主イエス・キリストの受難と復活の物語』に基づく総合受難曲も少なからず存在する。 17世紀におけるプロテスタント受難曲の最高傑作は、ハインリヒ・シュッツ(1585年-1672年)が1663年-1666年に作曲した3曲の受難曲である。シュッツの作品は、伝統的な応唱受難曲によりながら、極めて表情豊かな独自の朗唱音が用いられており、合唱においてもファルソボルドーネ様式が放棄され、劇的な表現を通して言葉と音楽との一致が実現されている。
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