17世紀の日本での活動
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「ロザリオ・コンフラタニティ」の記事における「17世紀の日本での活動」の解説
17世紀の日本においてロザリオ・コンフラタニティのメンバー達はドミニコ会のメンバーたちと力を合わせて自分たちの信仰の義務に献身していた。彼らは霊的な修練を通じてドミニコ会全体の霊的な恩恵を共にしていた。 日本の信者たちはひとたびコンフラタニティのメンバーになると自分たちをドミニコ会の家族の一員としてみなした。また、ドミニコ会のメンバーたちもそうみなした。彼らは日本の宣教師たちに宿と他のすべての必要なものを提供した。そして、自分と自分の家族たちの命さえも危険に委ねた。 ドミニコ会の歴史学者たちは聖職者、教師、宿屋の主人、そして他の後援者としてドミニコ会のメンバーとなった者たち以外にも幾万もの日本人のキリスト者がロザリオ・コンフラタニティに入会していたことを伝えている。ロザリオ・コンフラタニティの大多数のメンバーについては知られていないが、数名の名前は知られている。ドミニコ会士の主要な宿主だったか彼らと何らかの繋がりがあった者たちである。彼らのほとんどは殉教した。彼らについては日本のドミニコ会殉教者の一覧に掲載してある。 ロザリオ・コンフラタニティのメンバーたちは、他のキリスト者を励まし、助け合い、牢獄に捕まっている者たちの訪問を続けた。フランシスコ村山神父は、アントニオ村山等安という長崎代官の2人目の息子であった。彼は、迫害のなかメンバーたちに宣教者たちを見えないように隠すよう計らった。1615年の春、彼は大阪に赴いた。その間、ナバレテ神父がすべての責任を引き受けた。フランシスコ村山神父は、大阪城の防衛にあたっていたキリスト者の兵士たちを助けに行き、城の近くで攻撃を受け死去した。その後の1615年の夏、ナバレテ神父が地方の司教代理となった。コンフラタニティのメンバーたちは、純白の制服、前にドミニコ会の紋章と縁飾りとしてロザリオがついた手首までの黒い上着を身につけていた。
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