17世紀以降のヨーロッパにおけるソドミー
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「ソドミー」の記事における「17世紀以降のヨーロッパにおけるソドミー」の解説
17世紀における哲学(en)の発展により、前述のユスティニアヌス1世の主張や、性的な罪、紛れもない迫害、伝染病発生や自然災害および国家の飄落などは非科学的な思想(モラル・パニック)であると考え、社会的および政治的な観点での性的逸脱の結論であるとした。 18世紀においてロンドンの中央刑事裁判所で扱った強姦および肛門性交(ソドミー)の裁判尋問では、強姦に対する処置は甘く、ソドミーに対してはほとんどの例で厳しい処置がとられた。1780年代からは裁判の数が増え、ソドミーは死罪を言い渡された。ソドミーを理由にした恐喝も増加した。 18世紀のフランスでは、肛門性交(ソドミー)は名目上は死罪であるが、ソドミー罪で死刑が執行された事例は僅かであった。しかしながら、これらの多くは他の罪が適用された。例として、パスカルという男性は彼に抵抗した男性を殺したとされている。バスティーユ牢獄の記録、およびアルジャンソン警部補の証言によると、売春などの道徳犯罪で逮捕された多くのケースは、国外追放、軍隊への移送、所々での監禁(主に病院)になった。もちろん、一部には実際に売春に関わったり、子供に近づいたり、もしくは同性愛行為以上の行為を行った者もいた。バスチーユの記録を編集した19世紀のライターのラベッソンは、事実上この罪を公表して公開刑罰とならないように、当局がこれらのケースを控えめに扱うよう推奨した示唆している。 当時の雑誌の一つがソドミーというあだ名で呼ばれ、ある時点でソドミーは次第に増えていった。当時既にクルージングスポットが存在しており、テュイルリー宮殿はその一つとして知られていた。このような場所では彼らは目立たぬように行動をしており、行動に目に余るものがなければ、前述の法も厳格には適用されていなかった。 一方で1730年と1733年のオランダでは、ソドミーのモラル・パニックが発生し、276人の男性が処刑されている。
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