17世紀初頭と護国卿時代とは? わかりやすく解説

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17世紀初頭と護国卿時代(1600年–1664年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:47 UTC 版)

トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)」の記事における「17世紀初頭と護国卿時代(1600年1664年)」の解説

17世紀入ってからのトリニティ歴史は、大きく3代学寮長ラルフ・ケテル(英語版)(在任1599年1643年)と、8代学寮長ラルフ・バサースト(英語版)(在任1664年1704年)の2人にまとめられるケテル多く仕事の中から、ダラム・カレッジの食堂流用していたダイニング・ルームと、1618年倒壊した大広間周辺建物再建選びその後地下貯蔵庫を掘って、現在もカレッジバーとして知られる空間作った図書館複数改装され蔵書増えたが、裏では、エドワード・ヒンドマー(英: Edward Hyndmer)、1625年)やリチャード・ランズ(英: Richard Rands、1640年)など、卒業生からの遺贈がこれを支えていた。あるフェローは、ヒンドマーからの寄付直後、公式に司書指名され少額給料貰って職務勤しんだという。小さな改修いくつか進められトイレ設備など使えるようになった。「音の管理人」(英: A "sound administrator")とも呼ばれたケテルは、全ての身分の元学生から基金募り設備整えるため自身財産差し出した現金での寄贈加え卒業生食器寄付する組合作ったり、裕福な生徒大きな金銀食器強制的に差し出す「食器基金」(英: "plate fund")という組織作られ、最高で173ポンド (78 kg)もの食器集まったトリニティ堅固な財政基盤得て予備基金再投資もできるようになり、基金概ね上手く行ったことから、設備質・量共に充実図られた。最後にケテルは、自らの名前を冠した「ケテル・ホール」(英: Kettel Hall)を、オリオル・カレッジから賃借りした隣接地建設したケテル在任中、このホールトリニティ生徒たち宿泊場所として活用されたが、その後トリニティがこの土地取得するまでの使用法についてはよく分かっていない。改革により一般学生の数は着実に増え1630年までには100人以上に達したが、多く生徒学位取得せずに学校去った学費生徒によって大きく異なっており、また大酒飲み賭博が最も多い悪行として記録されている。 オックスフォードの他カレッジ同様に1640年代トリニティにとって不遇の時期だったが、これはイングランド内戦影響である。1642年段階で、カレッジにはチャールズ1世200ポンド2019年時点の£35,000同等)の貸し付けがあったが、これが払い戻されることは無かったその後オックスフォード短期間要塞転換され王党派に対す防御拠点となる。1643年1月19日には、537ポンド2019年時点の£91,900同等)の価値があったトリニティ食器がほとんど全て王室没収されそのまま返還されずに終わった。この時没収されずに残ったのは、聖爵聖体皿(英語版)(パテナ)がひとつずつ、また大型酒瓶であるフラゴン (Flagon) が2つけだった多く学生学籍離れ補充もされないどころか追従するフェローもいる有様だったので、カレッジ王宮の人々部屋提供するよう迫られた(カレッジ卒業生にとっては特に魅力的な申し出でもあった)。それにもかかわらずカレッジ財政破綻陥る1646年6月に、国会圧力オックスフォード引き渡され時には双方代表者トリニティ・カレッジ卒業生務めていた。大学引き渡し後、オックスフォードから王党派排斥されたが、ケテルの死を受けて1643年トリニティ学寮長に就任していたハンニバル・ポッター(英語版)は、辞任要求静かに反抗しその後強制的に追放された。彼の追放その後12年間に及んだ戦後国会議員による監査 (Parliamentary visitation of the University of Oxford) が行われ、トリニティにはフェロー3人・スカラー9人・一般学生26人が在籍していると確認されたが、フェロー2人スカラー1人一般学生1人経理部2人は、国会への忠誠宣誓拒否して強制退去させられていた。新し学寮になったロバート・ハリス英語版)はトリニティ押しつけられただけの人選だったが、10年間の学寮長生活の間で、何か騒ぎがあったという証拠は見つからない。むしろ、トリニティゆっくりと復活し財政状況着実に改善していた。ハリス1658年12月12日亡くなりフェローたちは国会監査員干渉され前に、ウィリアム・ホーズ(英: William Hawes)を彼の後継者として選出したホーズ自身は9ヶ月後に病に倒れ画策して死の直前辞任したが、これはフェローたちが再び国会議員たちを出し抜けるようにとの意図だったと考えられている。フェローたちは「学寮長職全うできる最適人物のひとり」(英: "one of the most able men to hold the presidency")としてセス・ウォード(英語版)を選出したが、1660年代イングランド王政復古により、ポッター戦前主要人物オックスフォード帰還したため、彼の施政長くは続かなかった。ポッター1664年亡くなったが、その最期穏やかなのだった考えられている。新しく学寮長に就任したラルフ・バサースト(英語版)は、断続的ながら、既にカレッジ運営関与した経験があった。彼は学生数の大幅増加が目下最重要事項だと述べた

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