参預会議体制の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:35 UTC 版)
長州問題でもはかばかしい結果が出ない上、横浜鎖港問題では参預間とくに慶喜と久光との対立が激化したため、参預会議体制は早くも行き詰まった。この成り行きを懸念した中川宮が、2月16日に参預諸侯を自邸に招いて酒席を設けたが、泥酔した慶喜が中川宮に対し久光、春嶽、宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴論を吐いたため、機嫌を損ねた久光は完全に参預会議を見限り、幕府への協調姿勢を諦める。春嶽や小松帯刀(薩摩藩家老)が仲裁にあたるが、慶喜は幕府老中らとも対立をはじめ、老中・水野忠精(山形藩主)は「参予会議は天下の害物、むしろ廃するにしかず」とまで述べるようになった。 こうして、ほとんど何の実績もあげられぬまま、参預会議は瓦解した。2月25日いち早く容堂が京都を退去し、3月9日には慶喜が参預を辞職。続いて他の参預も相次いで辞任した。
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