参預会議の頓挫と一会桑体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)
「王政復古 (日本)」の記事における「参預会議の頓挫と一会桑体制」の解説
「参預会議」も参照 ところが、一橋派の将軍候補であり薩摩藩がその擁立に心血を注いできた慶喜自身、この時点では公議政体志向の持ち主ではなかった。久光の主導権を快く思わない慶喜は、将軍が朝廷に攘夷実行を誓約していることを楯に横浜鎖港を主張し、参預諸侯との間に摩擦を生じる言動をとり始める。諸侯は相次いで帰国し、参預会議はごく短期間のうちに瓦解することとなった。 参預会議瓦解後の同年3月25日、慶喜は禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮に任ぜられた。慶喜は京に留まり、京都守護職の会津藩および京都所司代の桑名藩を従え、また八月十八日政変以後の朝廷首脳である関白・二条斉敬や中川宮朝彦親王とも提携し、公議政体によらない新たな公武合体体制を構築した(一会桑体制)。以後数年の間、この体制が京都政局を主導していくこととなる。
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